私は長いあいだ内田真理子の作品を誤解していたのかも知れない。語彙の豊かさから繰り出す「いいことば」が、センスのいい作品に仕上げる仕掛けとして働いてしまい、句の奥に入りきれないもどかしさを感じていたのだが、この句集のどの作品も抑制されたことばが、1人の人間の存在証明として際立ってくる。
歳月を馬に曳かせて油売り
「羅生門」あるいは「雨月物語」などに描かれる中世、京の都を行きかう商人たち。地方からはるばると馬を曳いて都にやってきた女油売りの、問わず語りが時空を超えて、現代に再生された句集かも知れない・・という仮説も成り立たなくはない。
存在の苦さ夕月尖らせる
乗る筈の汽車たちまちに真葛原
クレヨンを握って迷う雨の色
斧に持ち換え達磨落としは続けられ
残像のつぐみをむしる木曜日
漂白剤の匂いかすかに昏れのこる
向日葵のあらかた焦げている部分
花野は闇 送電線をたぐりよせ
濁点のように鳥です砦です
片耳をもどす硝子の中二階
水滴をふるい落としてから眠る
二の腕をすこし撓めて湾になる
駅をめくればうっすら雨月物語
まぼろしの十一月を産みつける
最初から列はなかったことにする
密室の殺人てふてふ春のてふてふ
虚構の作品だが、「密室の殺人」のサスペンスではなく、詩が作者の意思として働く「殺人てふてふ春のてふてふ」がもっとも強く印象に残った。

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