会議は昼終る。そして新幹線の時間を急ぐ仲間と別れて、ホテルの近くにあるという「雪国記念館」へ行ってみることにした。あいにく休館日だったが、パンフレットも、ガラス越しに伺うなかの様子も、申し訳程度に町が運営しているといつた程度らしく、惜しいとは思わなかった。駅の売店に控え目に、しかし誇らしく『雪国』が置いてあった。ささやかな記念に一冊かった。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底がしろくなった。
確かにトンネルを抜けるとすぐに越後湯沢駅に着く。東京から約90分。しかしこの小説が書かれた当時は4、5時間はかかっていたはずで、その時間的経過かなければ、この名文なかったたろうなどとおもいながら、岡山までの長い車中をこの一冊でしのぐことにした。
そして、かつて何か義務感のように読んだときには気づかなかった川端文学の面白さにようやく気がついた。
「もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かし眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなやましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の感触で今も濡れていて、自分を遠くの女に引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきりと浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。しかしそれは彼が心を遠くへやっていたからのことで、気がついてみればなんでもない、向側の座席の女が写ったのだった。外は夕闇がおりているし、汽車のなかは明かりがついている。それで窓ガラスが鏡になる。けれども、スチイムの温みでガラスはすっかり水蒸気に濡れているから、指で拭くまでその鏡はなかったのだった」
この感覚的な描写は「伊豆の踊子」や「山の音」ではなく、どちらかというと「片腕」「眠れる美女」の感覚に近いと思われたが、勿論、それほど川端文学に精通しているわけではなく、ただ直観的な感想に過ぎない。 (岡山着21.23)

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