岡山にあって課題吟の名手といわれたT氏はお亡くなりになって久しいが、その弟子と言われていたある女性も、大会ではいつも高得点を取る常連であった。確かにうまい。起承転結のはっきりとした大会吟のツボを心得た書きぶりに、まだ若い女性なのに、さすがT氏の弟子だけあると舌を巻いたものだ。だが話したこともないその女性の句を遠く聞くだけであった。
ところが偶然にもある勉強会でその女性M子さんと一緒になった。その勉強会でもM子さのの句はいつも完成度が高い。一部のスキもない完璧な一句は、腕のいい職人が作った工芸品のように仕上がっていたが、作者の息遣いや、ためらいや悩みの傷痕は、それを一句に表すことは罪悪のようにきれいに拭い去られていた。
すこし打ち解けて話ができるようになった頃、私は思い切って一つの提案をしてみた。
KT先生から教えられた技法と言葉をすべて白紙に戻して、自分の思いで川柳を書いてみませんか。もう10年も前のことであった。
勿論、自分の思いで書いていると自覚しているはずの彼女は、ずいぶん失礼な提案だと思ったに違いない。勉強会でも句はいつも高い評価をされていた。だが、このシーンに有効なのはこの言葉、この感情を表すにもっとも有効なのはこれと、抽斗に用意された言葉を繰り出しても、それは作りものとしてしか読者の手には渡らない。
抽斗を全部からにして、言葉に苦しみながら一句を仕上げていく。それが創作ではないか。そんなことを何度か彼女に話した。もちろん、彼女の抽斗には長年の彼女の努力が詰まっている。それをカラにするには勇気がいったに違いない。
だが勉強会での彼女の作品は少しずつ変わり始めた。形骸化された言葉ではなく、ナマの言葉が一句に躍動し、日常が彼女の言葉によって新しく作られてゆく。しかもそれは私の提案によって変わったのではなく、彼女自身が自分の言葉に目覚めたのである。彼女の一人のファンとしてそれが何よりもうれしかった。

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