大会はつまらないもの。それより私は個の文芸として、純粋に川柳の文学性を追求したいと考える者はそうすればいい。私も、あんなつまらない場へ行かないというあなたを支持する。だがもし、個の文芸であると同時に衆の文芸でもある川柳の文芸性回帰を考えるなら、特に地方では、まず大会を動かすところから始めなければならない。
勿論そう簡単なことではないが、「大会は選者につきる」という原理の上に立てばさほど難しいことではない。
岡山の、1978年に始まり30周年をもって幕を閉じた「津山川柳大会」は、津山市教育委員会が主催するという異色の大会で、その運営に津山出身の定金冬二が加わったからすごいことになった。まず第1回〜3回までの選者は、山村祐、時実新子、寺尾俊平、森中恵美子、天根夢草、海地大破、前田芙巳代、墨作二郎、橘高薫風、北川絢一朗、泉淳夫、岸本吟一、八坂俊生、堀豊次などに毎回選者として定金冬二という布陣は、名実ともに全国に通用する第一級の選者であった。参加者の中から、前夜は興奮してよく眠れなかった、と囁きあう声が聞こえる大会などそうあるものではない。選者は渾身の力で作品と向き合い、その充実感からであろう、京都の北川絢一朗が「津山を現代川柳の聖地にしょう」と壇上で叫んだ。選者席の泉淳夫は立ち上がり両手を振って賛意を示し、地鳴りのような拍手が会場を埋め尽くした。冬二も立ち上がり一礼をした。
この感動的なシーンは今も忘れられないが、この大会の効果は岡山に顕著に現れた。たとえば、伝統川柳と一線を画すように革新川柳と言われていた作品が現代川柳として承認され、一般化されるようになった。「わけのわからん難解句」と言われていた句、革新川柳と指さされていた句が、広く認められるようになった意義は大きいが、少なくとも岡山ではこの津山川柳大会がその契機になったと私は位置づけている。
だが、教育委員会の担当者が次々替わることによって、大会の様相は微妙に変化しはじめた。お役所のバランス感覚と、地元の声優先の担当者にとって、「現代川柳のメッカ」であることよりも、広く地元に愛される大会のほうが重要なテーマだったのだろ。それでも冬二健在の頃は、担当者にも遠慮があったようだが、冬二没後は、古い言葉で言えば「革新から伝統まで」選者の巾を広げることが、市民の声を取り入れる正しい行政であると言わんばかりの運営になってしまった。
次第に並の大会になってしまった。これならもう30周年で終わったほうがいい。
第29回の選者控え室。恵美子さんは「もう来年以降は選者降ろしてや」と言い、作二郎氏はぽつりと「もうええやろ」。川柳のセの字も知らない若い担当者はおろおろするばかりであったが、私は「あなた方はこの大会の回数はしっていても、歴史は知らないでしょう。私たちはその歴史に達成感があります。もうピリオドを打ってもいいのではありませんか」と言い残して部屋を出た。
津山大会はピリオドを打ったが、選者(第4回から何度か)としてデビューさせていただいたことも含めて、私の中に大きなものを残してくれた大会であった。

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