『わたしにとって、川柳を創るという作業は、日々の生活、その痛みの中で磨耗し喪いつつある<自己>のかけらをひとつひとつ拾いあつめ、再構築してゆくことである。五年前、何かを創り表現することで癒されたいと切望したとき、それは必ずしも川柳でなくてもよかった。しかし、時実新子でなくてはならなかった。わたしが求めているもののすべて、すべてが「時実新子の十七音字」に内包されていた。奇跡のようだ。そう思った。そして、そう思いつづけて五年が経った。川柳という文芸の力。今やわたしの生きる力。その力はこれまでもこれからも、時実新子という作家から照射され続ける。不確実なことだらけのわたしにとって、たったひとつの、そして誇るべき確かなことである」と倉富洋子が熱く述べたのは、1997年、「川柳木馬」に彼女の作品と作品論が特集されたときである。
おなじ時実新子一門(『川柳大学)として、作品論は私が書かしてもらったのだが、まれの逸材として新子も絶賛する書き手であった。おそらく新子の跡を継ぐのは倉富洋子だろうと一門は囁きあっていた。しかし、何があったのか、その後しばらくして倉冨は新子の元を離れる。
そしてやや唐突に、なかはられいこさんと二人で華々しく『WEARE』という二人誌を出した。作品と批評。しかも書き手には歌人の荻原裕幸、穂村弘、後に芥川賞を受賞した長嶋肩甲という贅沢な布陣で、なかはられいことともに倉冨洋子の絶頂期を予感させる活躍ぶりであった。
しかし4号か5号を出したあたりから彼女の様子がおかしくなる。突然『WEARE』は休刊し連絡も取れなくなってしまったという。勿論、婦人雑誌のライターとしての生業を持ち、働き盛りの彼女にとって二人誌は負担がかかりすぎたのかも知れない。あるいは他の理由があったのかも知れないが、それっきり川柳の世界から姿を消してしまった。
いい書き手だっただけにときどき思い出す。
わたくしがしずかに腐る冷蔵庫
水を抱くようにあなたは私を抱く
バランスを崩してやじろべえは、今
わたしを描けば青ばかり減る絵具箱
抱擁の視野いちめんに跳ねる魚
針一本みごもり夏はまだ続く
初夏の午睡恐れるものは死にあらず
完熟トマトにぎりつぶせば満ちくる負
ひとりあやとりがもつれてゆく真昼
秘密はいつも猫から猫へ漏れゆくよ
きらきらと死は詩でもあり私とも書く
影が鳥のかたちに痩せたから、翔ぶね
追憶の昏さに波がうねりだ
月光は清音 誰が哭く夜も
寡黙なる告白 朝顔が開く
捕虫網手に手に月を狩りにゆく
月尖る隣人ひとり愛せずに
方言を忘れて昏き口臭よ
輪唱が途切れる夜のてっぺんで
まだ50歳に満たないはずの彼女が川柳に復活する可能性はないのかも知れない。しかし、年齢的にもう少し落ち着いたら、そして川柳を懐かしく思い出したら、華々しくなくてもいい、身の丈に合った形で川柳に戻ってきて欲しい、とややセンチメンタルに倉冨洋子を思い出している。

10