BS同人。名古屋を中心に活動の場は広い。「川柳木馬」119号の作家群像は「私は川柳のユニークさと面白さを繋ぐものとしてドラマ性を、もう少し追及したい」という丸山進特集である。
つまらないものを分母に持ってくる
この日とは遠い親戚かも知れぬ
大抵のことはバナナでけりがつく
玄関を開けたら一本背負いかな
回収車来るたび路地を逃げ回る
鯨尺で測る親戚間の距離
など60句掲載。それに徳永政二、吉田三千子の解説がつく。
かつて私も丸山の作品に触れて書いたことがある。
平易な言葉と叙述で展開されていながら、世界、あるいは日常に独特のひねりを入れた驚きがあり、これを丸山作品の特徴だと思っている。勿論これは、丸山自身の規定された視野に浮かびあがる世界なのだが、その視野の中で、小市民的なヒューマニズムと、少しのいじわる精神と諧謔性を持って、自身を「私」として対象化してゆく。あるいは、あらゆる「物」に仮託し「私」の存在を際立ててゆく。
実生活では社会的にも家庭の中にあっても、分別をわきまえている年齢とともに、ある位置を得ているはずの男の、社会との折り合いのつけ方をまさぐるような川柳が多いのだが、それは決して表には出さない呟きとして、彼の内側で燻りつづけていた「苦笑い」のようなものであろう。そして、川柳という形式を得た彼は、誰にも見せることのなかった内面の生のおかしさを、大真面目に句として小出しにしてゆくことになる。あるいは、川柳を知ることによってはじめて、内面に燻りつづけていたものに気づいたのかも知れない。
丸山進はなぜ川柳を書いているのかという問いに笑って答えないが、人生の、すでに思い出になってしまった部分を言葉によって再生し、展望する未来に置き、失われていた自我を覚醒し、具体的に実人生の幸福を取り戻したいとする願望か、あるいは、書くことによって得られる存在の証しを求めての行為だろう。対象とするものの把握が鮮明で、解りやすく主題を形象化する。うがちの力学に裏打ちされた戯画として、むしろ軽い印象の方がより切実さを強く滲ませる独特のパワーになっているようだ。

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