昭和11年生れ。29年より川柳入門。そのご40年、ふあうすと同人、地元高知の有力結社「帆傘川柳社」同人になるなど順調に活動基盤を作ってゆくが、やがてその伝統性に寄りかかる閉鎖的な作風に飽き足らず、自ら高知の異端として孤立する道を選び、地元結社からも身を退く。そして昭和54年、43歳にして、30代の北村泰章、古谷恭一などとともに「川柳ぐるーぷ木馬」を創刊し、全国にその存在を示してゆくことになる。
その陰に、大破が生涯の師と仰ぐ西森青雨(昭46年没)の存在があったことはよく知られているが、「売る箒空を撫でゆき酒の酒徒」「自転車はわが糧闇に置くも光る」など境涯を自らの内面に置き凝視する無頼性が、大破に大きな影響を与えたものと思われる。
しかし、何度かお目にかかりながら交流が始まるのはずっと後年のことになる。「通夜の酒月は頭上を通過せり」が展望大会で特選になったとき、その場にいたのだが、それがいつ頃であったか、この日はじめて私の句に触れてくださったような気がする。'つづく)

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