ギンちゃんがBS作品を読んで、いくつかの句を採り上げて、共有共鳴はすでにこの界隈には存在しないのかと嘆いている。ギンちゃんは「時代を超えるメッセージに心通わせ、そこの立ち上がる明快な感動や生きる悦び」を川柳に求めているらしい。
だが川柳は読者に「明快な感動や生きる悦び」を与えるために書かなければならないのだろうか。芸術については私より深い知識を持っているギンちゃんには釈迦に説法になるが、商業ベースに乗った表現活動は別にして、自らの制作意欲によって、第三者のためではなく自らのための「自分の表現」を志すのが芸術の本質ではないだろうか。それが第三者に評価されるのは付加価値にしか過ぎない。
いくつかに句の中に「血早振神将不定愁訴群」という句がある。いつも難解な句で私を困らせる吉澤久良の句だが、歴史を辿り読みの知識を補強すれば読めないことはない。しかし難解な句であることに変りはない。ただ、吉澤はいつの場合も読者に感動を与えるために書いていない。あえて言えば吉澤は自分を挑発するために、川柳における言葉の表現の限界を突き破る実験を試みているといってもいい。
何かの表現を目指してノミを振る表現者が、ノミの勢いに任せて何とも理解し難いものを作ったとする。それを「これは第三者に伝わらない、感動がない」と否定するか、「う〜ん、
わけわからんけど何かありそうやな、まあそこに陳列しとき」と引き受けるか。
少なくともBSは読者に感動を与えるためにあるのではなく、読者とともに言葉の表現の可能性を問い続けていきたいと思っている。そこにギンちゃんとBSのズレがあるようだ。
というようなことを明日はギンちゃんと話せるかしら・・「柳色」というかなり過激な合評句会が大阪である。

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