葬儀のあと、喫茶店に入った何人かの中に、目を真っ赤に泣き腫らして沈痛な顔をしている女性が一人いた。聞けば高校の川柳クラブで泰章さんの手ほどきを受けてから、ずっと彼を師にしてきたという木馬会員のM・M代さんであった。
私が遠い高知まで葬儀に出かけたのは北村泰章を尊敬していたからである。作風はまるで違うし共通点も何もない。それでも高知という川柳では閉鎖的な体質が巾を効かせている地域に、新しい川柳の拠点を作り、紆余曲折の中で30年、高知の川柳を全国に発信し続けた意義は決して小さなものではないし、その執念といってもいい活動は私だけではなく多くの尊敬を集めていたはずである。
そして、高校教師として構内に川柳クラブを作り、年に一度ぐらいは関西から東京あたりの句会、大会に生徒を連れて行ったりもしていた。「この子らが卒業しても川柳続けてくれたらえんやがなあ」という彼の口癖を私は何度聞いたことか。
挫折を繰り返しながらの彼の活動は決して格好のいいものではなかったが、その執念こそが彼の生き様であったと言ってもいいだろう。
出棺の時、やや場違いな裕次郎の曲が低く流れていた。聞けば泰章の愛唱歌だという。

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