死顔の布をめくればまた吹雪 明(より)
『昔、女ありけり/川柳物語』
深野ちかる作
女は葬儀屋だった。
どこの生まれなのか、いったいいくつなのか、今までどんなことをしてきたのか、・・。誰も女について知らなかった。
長い間余所者を受け入れずに、というよりは、余所者から興味を引かれることのなかった村だった。村人たちにとって、ふらりと現れて居ついた女は奇異な存在だった。しばらく安ホテルに滞在したあとで女は村にたったひとつきりの葬儀屋を買い取った。
といっても女はその村のしきたりにくらかった。経営の算段をするほかに女のする仕事といえば、遺体を清め、死出の旅立ちにふさわしく装うことだけだった。
遺体を横たえた部屋で女はひとりで仕事をした。
遺体の顔には白い布がかけられている。
そっと布をめくるとき、死者の想いが女を照らした。
安らかなもの、悔いて歯がみをするもの、すでに虚ろだったもの。
そして待ちこがれた遺体が今、女の目の前にあった。
ずっと昔から女を拒み続けた男。
とんでもない女たらしでいたくせに、女の実の妹だけは大切にした男。ありとあらゆる悪事に手を染め、人を人とも思わなかった男がたったひとつ抱いていた道徳心が、愛した女の姉には手を出さないということだったとは。それは女の妹が死んだあとも変わらなかった。女は心の中で幾たびも男を殺した。
男がつまらない詐欺事件を起こした挙句刺されて病院に運ばれたのはもう二年も前のことだ。そこで男が不治の病におかされていることがわかった。男は両親に引き取られ生まれた村へ帰っていった。
それをつぶさに女は見ていたのだ。
女は村へ男を追ってきた。病の弱みに付け込む気持ちがあったのかもしれない。
ホテルの部屋で思案するうち散歩に出た女は思いがけず男と行きあった。道の向こうから来るのは男だけ。女の後ろにも誰もいない。男は酔っていたが想像していたよりも元気そうだった。視線が女の顔の上で止まった。軽く手を上げた男はいつもの習慣でそうしただけだった。男は女を忘れていた。
女はひとり男を罵った。
落ちぶれた死に損ないの酔っ払いめ。
おまえなんか、もう昔のおまえじゃない。
だが女は男を忘れられなかった。
生きている男が手に入らないのなら、死んだ男を自分の手の内にするのだ。
そして女は男の遺体と対峙していた。
他には誰もいない。
女の指が顔にかけられた布を返した。
吹雪いていた。
男は激しい吹雪と化していた。
死んでまだ何をこの男は・・・。
愛しい、と思った。
だいじょうぶ、お前は私のものなのだ。私が眠らせてやるのだ。鎮まりなさい。ずっと愛してやるのだから・・。
だがいくら宥めようとしても吹雪は収まらない。
それどころか、吹雪は触れようとする女の指をつめたくすらしなかった。
死んでなお男の紡ぐ物語は女とは無縁のところで吹いていた。

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