10日は大阪で「読みの会」そし11日は県内柳人(杉原正吉)の追悼句会と続いた。いずれも時実新子の訃報が話題になった。
1979年「川柳展望」会員になった当時は、展望会員になるということは新子主宰に認められた証であり、今では信じられないぐらい高いステータスでもあった。しかし、何事にも文句の多い若造と、激情型の師がうまくいくはずもなく、会員になつて一年目から三年間、口も利いてもらえない日が続いた。投句には○×がつけられて返ってくる。ただそれだけの関係が続き、展望大会でも私は師を遠くから見ているだけであったし、目礼でさえ無視された。「あなたは私より編集長がいいのでしょう」と。
しかし、1987年「火の木」受賞することになった。そして、その授賞式で初めて「明さんよく辛抱してくださった」と涙を流してくれたことはいまも鮮明に覚えている。
1996年 時実新子の「川柳大学」創立会員となり1998年、ある出来事がきっかけで師の元を離れるまで19年。私の川柳の成長期のすべては時実新子の下にあった。

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