男根担ぎ仏壇峠を越えにけり 西川徹郎
この句について俳人、攝津幸彦は「仏壇が男根を担ぎ峠を越えてゆく光景を思って、いかにもユーモアの漂う、それでいてどことなく寂しいものを感じて納得したのだった。一方、そんな思いとほとんど同時に、作者が仏壇峠と命名し意識の上で所有する創造の峠を男根を担ぎとぼとぼと越えてゆく光景に出会い、何か特別な祭事の司者を想定したりして面白がったものだ。
この二つの光景がしばらく頭を横切るうちに、いつしか西川の姿と仏壇が折り重なり、男根の途方もない大きさが想像されたりして、僕と作品とは格別の交歓をしたのだった」と書いている。(『俳句幻景』99年刊)
私もこの句を読んだとき、作者の中から湧きでた「仏壇峠」という異界をイメージし、巨大な男根を宿命のごとく担いでゆく男の哀れを感じたのだが、私の場合は寺山修司の幾つかの短歌が頭にあって、西川の俳句と寺山の短歌が渾然一体となった世界の中でこの句を読んでいたような気がする。
寺山修司の短歌をすこし
たった一つの嫁入り道具の仏壇を義眼のうつるまで磨くなり
新しき仏壇買いに行きしまま行方不明のおとうとと鳥
売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき
ほどかれて少女の髪にむすばれし葬儀の花の花ことばかな

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