ピアスの穴から議事堂が見える
ピエールカルダンの音がする 乳房は湖
こんぶのようなシャツ 八月のカレンダー
オンザロックの氷がとけてゆく 処刑
転換キーを叩いても出てこない 神話
ある朝のレモンを運んでくる運河
刑期を終えて壁の向うのヴァイオリン
自己の内面に抱えている批評性、あるいは絵画的風景を、意識としてカタカナ語に与え、自由で開放的に跳躍するカタカナ語のリズムによって、他にはない独自性を作品に残す。
「パストラル(Pasutoral)」という句集を出された森田栄一氏の作品である。「バストラルとは、牧歌的な器楽曲、または声楽曲とか、田園交響曲、田園の意味だが、作品集は私の心にあるもの、私のイメージしたもの」(あとがき)とやや難しいが、自分の作品を「心の中の田園」と位置づける森田氏は、川柳グループ「アトリエの会」を主宰され、絵画や音楽と対面し、その直感的イメージによる創作、いわゆる「イメージ吟」にも新境地を開かれるなど進歩的な作家であり、画家であり、音楽にも造詣が深い。「武蔵野の田園を流れるヴィリディアン(緑色)も私の躰を流れる赤い血もまったく一つのものである」と、イメージによってシュールな世界を自分のに中に採り入れようとする。
句集はまさにカタカナ語の坩堝であり、世紀末的退廃を秘めた作品のイメージは、カタカナ語によって増幅され、修正され、時には反語的に句の内意を撹拌する。
ネガは焼かれてモザイクタイルの音楽
これは「ネガは焼かれて」の伝える意味と「モザイクタイルの音楽」と伝えない意味を組み合わすことによって表出する、無意味性をもって構築されていて、提示されているのは意味ではなくイメージだけである。
「ネガ」の内向する暗い光が、豊かな色彩感覚を持つ「モザイクタイル」の明るい光に反転し、カタカナ語が音符のように弾みながら、作者の感覚的思考の向かうところを明らかにしている。このような句に接するたびに、漢字や、平面的なひらがなにはないカタカナの鋭角性、音楽性、カタカナ特有の乾いた響きが、川柳にどうかかわってゆくのか興味はつきない。 しかし、他の文芸では、もう実験は始まっているのである。
(結婚+ナルシシズム)の解答を出されて犀の一日である 荻原裕幸
「酔ってるの?あたしが誰か わかってる?」「ブーフーウーのウーじゃ
ないかな」 穂村弘
言葉ではない!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!! ラン! 加藤治郎
歌壇の最前線にいる歌人のカタカナどころが、記号やマークまで一首に採り入れようととする試みに驚かされながら、言語表現の無限の可能性を片方の目で追い、もう一方の目は、カタカナ語の使用さえ逡巡する川柳の現状を振り返っている。
(これはもう10年ほど前に川柳マガジンに書いた未熟なものです)

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