「木馬」116号の特集は川柳パーセントを主宰する筒井祥文特集。伝統川柳をこよなく愛するがゆえに、伝統川柳の今を舌鋒鋭く批判する彼の作品は、確かに伝統川柳を時代の中に新しく創造しようとする気迫に満ちている。
誤作動のかめらに映る法善寺
おぼろ夜の寿司一カンと渡り合う
メロンから少し歩くと港町
大荒れの沖を見ている竿秤
握手した男の砂の濡れ具合
葉桜に耳打ちをする女の子
床に匙落としたままの銀閣寺
半島をポキンと折って夕涼み
能役者月の遊びを見ていたり
ただ、ここで書きたいのは句のことではない。作品解説にまだ未知数の若手二人を起用したことである。大方の作家は目線を上にあげて解説者を探す。より有名人、より著名人のほうが、より深く自作品を捉えてもらえると思い、作品に箔がつくと錯覚する。
勿論、祥文は若手二人を信頼しての起用だが、どこかに「失敗してもしゃあないわ、ええ経験になったらそれでえんや」という思いが少しはあったに違いない。
いま川柳界を見渡してこれだけの度量を持っているものは多くはいない。私の記憶には、「失敗の責任はワトがとる」を口癖に、積極的に若手を起用してきた土佐の海地大破しか残っていない。彼の英断と亡き北村泰章の努力が、現在の「川柳木馬」の素地を作ったといっても過言ではない。
話は横道にそれたが、若手二人は祥文の期待に見事に応えた。すでに評価が上昇しつつある兵頭全郎はもとより、外に論を示すのは初めてではないかと思える宮本きゅういちも「芸人祥文・庭師祥文」というタイトルで「時間」や「もののあわれ」を基調にして祥文の世界に切り込んでいる。
「祥文氏にはその質量をさらに大きくして、次の世代の川柳世界に向けた引力圏を再構築してもらわなければならない。林檎の質量が地球を上回って、地球が林檎に落ちてくる様子を、私は林檎の側から見てみたいと思う」
と書く兵頭全郎は、すでにBS誌でも論の評価を得つつある。

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