・・石部明が示した「私性」「詩性」「客観性から主体性」なども方法論の一端であろうが、その変容の範囲はもっと広く把握すべきではないか。というご批評をいただいた。勿論それには謙虚に耳を傾けなければならないし、筆者・F氏は日頃お付き合いのある自由律俳人であり、なおさら衿を正して聞かせていただかなければならない。だが・・
例えば吉本隆明・・ああ、また吉本隆明か・・。論客を自認する人たちが自分の論をさておいて、吉本隆明の論を応用するのはめずらしくないのだが、その画一的な対応ぶはいささか食傷気味である。つい「吉本隆明ぐらい私も読んでいる」と一言言いたいところだが、実は一度や二度読んだぐらいで理解できるほど頭のよくないこちらは、黙って聞くほかないのだが、
吉本は「時代の秩序感覚と個人の秩序感覚の不一致が変容の原理である」、それを短詩型の展開の根本に据え、主体性の省略こそが短詩型を支えるものと主張する。といわれても、まるごと引用の高等理論がどれだけ川柳の創作現場に響いてゆくだろうか。ここに筆者の顔の見えないのはもどかしい。
また吉本は、「自由律の俳句は川柳と区別するのは不可能と思えた」「俳句も川柳もいいものはポエジーとしていいんです」「川柳の将来はポエジーに行くか俳句にいくか。どっちかしか道はない」と述べ、現代川柳の微妙な位置を示している。・・と筆者は言うのだが、これは吉本が平成5年の『短歌・俳句・川柳101年』で、初めて川柳を目にした、いわば出会い頭の感想にしかすぎない。さほどありがたがる論でもない。
折角のジャンルを超えたご発言なのだから、もっと私たち川柳の創作現場に響く肉声で私たちを刺激していただきたいと思う。

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