京を抑える者

2015/7/26 | 投稿者: 鹿苑院

京に最も近い徳川譜代の藩といえば彦根藩である。譜代は十万石を超えないのが通例だが、彦根藩井伊家に限っては三十万石という特例中の特例。

彦根にこれほどの強力な譜代を置いたのは京(朝廷)の監視のためだろう。同じ近畿地方には五十五万五千石の紀州藩もあるが、これは家康没後にできた藩である上に地理的に見ても京というよりは大坂を抑える役目の方がメインだったように思える。あくまでも家康が京対策の役目を期待したのは彦根藩だと確信して良さそうだ。

では家康はなぜその役目を親藩に任せなかったのだろう? 任務の重大さからいえば御三家筆頭を尾張に置かず京の近くに置いても良かったはずだ。
オレはその理由は、室町幕府の失敗を繰り返さないためだったと思う。室町幕府には京の将軍に並んで関東に鎌倉公方がいたのだが、京の将軍を補佐するどころか事毎に対抗意識を剥き出しにして時には戦が起きたこともあるほどで、鎌倉公方の設置は失策だったと言わざるを得ない。

京の近くに副将軍級の強力な親藩を置けば、江戸の将軍に対抗意識を抱いて朝廷を担ぎ叛旗を翻す可能性がじゅうぶんに考えられた(尾張藩の勤王の藩風をみればあれが京の近くにあったら大変なことになったのは容易に想像できる)。
そこで井伊家に京の抑えが任されたのだろう。譜代筆頭だがあくまでも臣下であり将軍と肩を並べる地位にはなり得ない。安政の大獄は京でも猛威を振るったが、むしろそれこそ彦根藩の本分とも言える。
井伊直弼が暗殺されて彦根藩の力が衰え、京の抑えがはるか遠くの会津藩に任されるまでこの任務は続いた。
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