2021/6/17 | 投稿者: 鹿苑院

父方の祖母の命日に母方の祖母の葬儀という奇妙な巡り合わせになった。
仕事柄老人によく接しているのでそこから出てきた持論だが、高齢になるほど人間は二極化する。すなわち何を見ても文句しか言わないひねくれた老人か、何があってもニコニコしている穏やかな老人のどちらかになる。
僕にとって、後者の代表格が母方の祖母だった。37年間、怒ったところを一度も見たことがない。

94歳という長寿を保ち、死に際こそ誰も立ち会っていないものの、その直前に最後の話し相手になった介護士さんの手を取りニコニコとしていたという。
なにか善導さまの発願文を思い出してしまった。死に際が安楽であるほど上等なグレードでの極楽往生をした証拠と言われるが(浄土真宗ではこの考えは否定しているが)、上品上生の往生とはこれではなかろうか。
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2021/6/11 | 投稿者: 鹿苑院

僕の趣味はいくつかあるが、最大のものは歴史小説と言っていい。ただ、時々自分でも不思議になる。なぜ歴史小説が面白いのか。なぜ飽きないのか。
だって途中経過も結末も知り尽くしているのだ。どんな本を読んでも信長が桶狭間の戦いに敗北することはないし、坂本龍馬はどうしたって近江屋で暗殺されてしまう。読む前からそんなことはわかっているのにどうしてそれを読むのが面白いのだろう。

僕の心の師・井上義啓氏には「プロレスとは底が丸見えの底なし沼である」という名言がある。
このあまりにも哲学的な言葉の意味を解釈してみると、プロレスというものは勝敗・結果は歴然と見えるし、なんなら見なくてもどっちが勝つかぐらい大抵は予想できるが、そこに至るまでのあれやこれやを考察することにプロレスの妙味があるということだろう。
その意味でプロレスに勝敗の筋書きはあるのかと聞かれれば「あるだろう」と答えざるを得ないが、プロレス観戦とは単純な結果以外の所でレスラーや団体のメッセージを読み解く知的遊戯であると知れば、むしろなまじ真剣勝負で勝敗以外は価値を持たない他のスポーツなど見ていてつまらなくなる。井上義啓氏がプロレスラーのような筋肉隆々のマッチョではなくスーツが似合う紳士なのは知的遊戯の達人なのだから当たり前のことなのだ。

で、ふと気付いたのだが歴史小説の楽しみとはこのプロレスの楽しみ方に似てはいないか。
個々の戦いの勝敗、人物の生死は最初からわかるが、その経緯を書くのに作家ごとのアレンジ、メッセージがそれぞれまったく違う。そこを読むことに歴史小説の醍醐味がある。
そうだ、そうに違いない。高らかに言おう。

『歴史小説とは底が丸見えの底なし沼である』と──。
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