2020/6/21 | 投稿者: 鹿苑院

善光寺が長野に移る前は飯田にあった。善光寺のいわば元祖がその飯田の元善光寺である。
長野の善光寺だけでは片詣りで、元善光寺にも参って初めて完全な参拝になるという。ちなみに同じことが上田の北向観音でも言われているがそれはまた別の機会にするとして。


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やってきました元善光寺。ちなみに長野の善光寺に参拝したのはいつだったかとこのブログ内で検索してみたらちょうど10年前だった。往生極楽も結構だが今は現世利益もなんとしても叶えてほしい浄土教徒の僕にとって、善光寺というのはまさに渡りに船である。
元善光寺は小さなお寺だと書いてあるレビューも見たが、それを読んで想像したものよりは大きく立派なお寺だった。宝物館の見応えは満点。数ある展示品の中で最も僕を感動させたのは恵心僧都源信筆の善光寺如来絵像である。比叡山に住む恵心僧都がはるか信濃の善光寺如来を絵姿に描くほど崇めるという事実はこの如来がいかにありがたいかを物語ると言えよう。

おみくじを引いたところ、もしかしたら生まれて初めてかもしれない凶を引いた。ちょっと鼻白んだが、よく考えてみたら今の状況で大吉が出たらそりゃあウソだろうと思う。紛れもなく今置かれている状況は凶なのだから当たっていることに感嘆するべきだろう。
「凶」は「強」に通じるし、これ以上悪くはならないのであとは上昇するだけだから逆に縁起が良いともいう。ちなみに元善光寺では凶が出た人に災い転じて福と為すの護符をくれるというのでありがたく頂いた。

今日に先立って善光寺に関する書籍をいくつか読んだが、最も心を打たれたのは良善法印という山伏に善光寺如来が与えた夢告である。
「浄土宗という宗派はなく、浄土門というべきである。どの宗派の者も結局はこの門をくぐるがゆえに」
という。
かの道元禅師は自分の教えは釈尊が教えた仏教そのものという自負から、曹洞宗と呼ばれることを嫌ったというがそれに近いものを感じる。
しかし僕は宗派意識から抜け出せないみみっちい男なので、善光寺精神に反すると知りながら敢えてこの夢告にかなう宗派を挙げるとしたら、それは一遍上人の時宗であろう。偶然にも最近、「死してなお踊れ 一遍上人伝」という小説を読んでべらぼうに面白く、また感動もしたばかりである。
時宗は日本の仏教十三宗の中では後発と言っていいが、鎌倉時代の宗教改革の最後に辿り着いたのは日本仏教の元祖というべき善光寺イズムに極めて近いものだったというのはなんとも尊い気持ちがする。
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2020/6/18 | 投稿者: 鹿苑院

3つ前の記事で鎮西派の二類往生義は法然上人の選択本願の教えとは違うのではないかと書いた。
柳宗悦もその著書の中で


「二類往生」の考え(念仏に非ざる行にも往生を認めるという立場)は如何なものであろうか。純教義の上から見ると、鎮西よりむしろ西山義の「一類往生」(念仏の業のみに往生を認める)の方が、一段と祖師の元意を発揚したものと思われてならぬ。


と書いている。僕もそう思っていた。

現在は鎮西派の方が圧倒的多数派であり、西山派の10倍ぐらいの大きさがあるが、これは教えが正統であると評価されたからというよりは単に徳川家という巨大な檀家を持っていたからである。

で、西山派を勉強してみたのだが、大意として「阿弥陀仏に一度帰依すればその人の行動のすべてが念仏になるので念仏以外の行も念仏ということになる。だから往生の因はあくまでも念仏のみである」というのが西山派の教義らしい。
……ヒジョーに申し訳ないのだが、それはどうにも僕には無理矢理な理論に思えた。いやいや結局は念仏以外の諸行を無理に念仏ということにして往生の因として認めとるやん、と。

そこでグルグル迷っていたところ、ネット上にこういう書き込みを見つけた。

鎮西派は二類各生説。つまり、正行である念仏による往生と、雑行である諸行による往生の二種類両方を認める。
但しこれは原則論で、実際は機根の問題から諸行では往生できないから、諸行を廃して念仏を立てる。
西山派は一類往生説。つまり、正行である念仏による往生一種類しか認めない。
しかし是は念仏を立てて諸行を廃するための説明で、いわゆる特殊名目の行門、観門、弘願門の観門から弘願に入った位、つまり安心決定すれば、実は諸行は念仏という仏徳全体の各々一部の徳を表すから、殊更に廃する必要はなく、逆に生きてくる、という。



つまり、鎮西派は二類往生だけど諸行は廃立で、西山派は一類往生だけど諸行が生きてくるから廃立しない。なるほどこれならと納得した。その宗派内の行者に限ってならば念仏のみをピュアに勧めているのはむしろ鎮西派の方ではないか。
そもそも法然仏教は、聖道門の諸行によって悟りを開ける才能・環境がある人はもちろんそれで良いけど、それができない人のための易行として念仏を勧めた。であるなら諸行でまったく往生できないとまでは言っていない。専修念仏以外の高僧、例えば玄奘三蔵、空海や最澄、臨済義玄や栄西や道元、一休等が成仏も往生もできてないとはとても思えない。

こうしてみると鎮西義は他宗も排撃しない、人に優しい教えだと言えるのではないか。
もっとも現実には、徳川家の権威でもって他宗の寺も浄土宗鎮西派に無理矢理改宗させられた例が多く、その寺々は看板を変えただけで元の宗派による祈祷は何も変えていないのでむしろ浄土宗鎮西派がなんでもありのごった煮宗派になってしまっているという事実はある。懐の深さと言ってもいいのかもしれないが、なにかしらそれでいいのかという気持ちは残る。
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2020/6/5 | 投稿者: 鹿苑院

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岐阜市石原の西山浄土宗・醍醐寺に参拝してきた。ホームページを見るにかなり敷居の低い寺で、ウエルカムな雰囲気が漂っていたので行ってみたわけである。

ひとしきり楽しく寺域内を見学させていただいて、さあ帰ろうとしたらご住職が出てきて、向こうから話しかけてきてくださった。お話してみた印象は熱血漢の住職だなという感想で、立ち話ながら寺のあれこれの解説もしてくれたし、僕の今の心境として西山浄土宗に惹かれているという話も聞いて頂いた。

話の最後にこの写真を見せて、西山浄土宗としてこれを拝んでも教義上問題ないかと聞いてみた。

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「これ持ってるのか!? 凄いなあ。もちろん全然構わないよ」という返事だった。むしろ何故そんな事を聞くんだというような顔をされたので、問わず語りに「浄土真宗では衣の皺の数まで決まってて、その諸条件を満たしてないと正式な礼拝対象として認められない。だからなんとなくその感覚が染みついてる」と話したところ、「そんな事言ってると信徒が離れていくぞ。『この仏様が好き!』、それで手を合わせる。それだけでいいじゃないか」と言われた。明快である。人間の心情としてはその方が自然であるに違いない。
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