2015/12/20 | 投稿者: 鹿苑院

豊臣五奉行の一人、増田長盛は関ヶ原で西軍に付いたため改易されたが、次男盛次は尾張徳川家に仕えた。当然大坂の陣にも徳川方として参戦したが、心情的には豊臣恩顧であるため豊臣軍が優勢になると機嫌が良くなり、徳川軍が優勢になると顔をしかめていたという。
これを耳に入れた家康は怒ることなく「さすが増田の子」と褒め、尾張義直も了解の上で盛次は尾張家を離れ、大坂城に入城した。長宗我部盛親隊に属し、八尾の戦いで討死。

なお何故か大坂城落城後、盛次の大坂入城の責任を負わされる形で父・長盛が切腹している。義直の了解の上でやったことなのに後になって責任問題になるのは可哀想な気がする。
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