2014/5/28 | 投稿者: 鹿苑院

学生に論文を書かせる実習の期間なので、学生もオレも毎日夜遅くまで残っている。学生は7〜8人の班で一つの論文を書くのだが、なかなか平等とはいかず、頑張るやつとそうでないやつに別れてしまうのはこういう形態の実習の宿命とさえ言える。

残って論文を書かないやつの理由で最も多いのは「部活があるから」なのだが、これには強い違和感を覚える。なぜ日本の学校はかくも部活に甘いのだろう。作業の合間の雑談で、これは講座の意見ではなくオレ個人の考えだがと前置きした上で学生にこう語っている。オレは部活は遊びだと思う。部活は実習をサボる理由にはならない。大学生活で学業より部活を優先するやつが少なからずいるが、そんなに野球をやりたいのならわざわざ受験して大学に入らなくても町の草野球チームに入ればいいではないか。なぜ大学に来てそれをやるのか、と。

この考え方は今までいろんな所で発表してきたが、その度に猛反発を受けた。彼らは自分たちがいかに部活を頑張ったか、勝って感動したか、負けて悔しかったかを語り、一生懸命やってるんだから断じて遊びではないと言う。しかし彼らは一つ根本的な勘違いをしているのだ。当人たちが一生懸命やっているかどうかとそれが遊びなのかどうかは本来関係がないという事実を見落としている。

例えばAKB48のオタを見てみればいい。彼らは生活費を削って同じCDを何百枚も買い、わずか数秒の握手会のために日本全国に遠征して推しメンに自分の存在を覚えてもらおうと必死になっている。当人たちは一生懸命なのだが、ではAKBのおっかけという行為は世間一般から見て遊びだろうか、それともそれ以上の称賛されるべき崇高な何かだろうか? オレは前者だと思うが、AKBのおっかけが部活に置き換わった途端に後者になってしまう世の中がすごく不思議だ。部活を理由に実習をサボることはAKBの握手会のために実習をサボるのと同じくらい白い眼で見られるべきだ。

「部活は(水戸黄門の)印籠みたいになってますよね」──真面目に論文作業をしていた学生がそう言った。部活を口実にすればかなりの範囲のわがままが容認される現状を表すのにピッタリな言葉である。

もうすぐ夏が来る。甲子園の季節である。たかがガキの球遊びを世の中全体で称賛する季節が。
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