2013/2/13 | 投稿者: 鹿苑院

今朝のラジオで「今日はバレンタインイブですね」なんて言っていたのでこんな顔になって呆れてしまった→(゚д゚)

クリスマスイブからの連想で「イブ」とは「前日」のことだと思っているのだろうが、どんな英和辞典を見れば「evening」に「前日」という意味が付け加えられているのか教えてほしい。いや、断言しよう。そんな意味は無い。

今では1日の始まりは朝かもしくは深夜12時とされているが、古代ヨーロッパでは夕方だった。だから我々が12月24日の夕方だと考えている時間が、その見方だと12月25日の始まりの夕方になる。だからクリスマスのイブなのだ。クリスマスイブはクリスマスの日の一部で、あくまでも12月25日なのである。そう考えると、12月23日を指して、「前日の前日」という意味で「イブイブ」と称するのは滑稽な話になる。

ま、マスコミに知性を求めるのは無理な相談だから、今さら驚くことでもないか。
0

2013/2/13 | 投稿者: 鹿苑院

親鸞聖人は阿弥陀仏への信心を持ち続けることは「難中至難無過之」であると書いた。簡単に言えば、「これ以上難しいことはない」という意味である。この言葉を今実感している。

如来と人間との間に絶対的な断絶を設けて、これを信ぜよという浄土教は、本当に仏教なのか、仏教の皮をかぶったキリスト教ではないのかという疑問がどうも数ヶ月前から消えずにいる。キリスト教でもいいじゃないかという人もいるだろうが、聖書のおよそ非科学的な神話なくしては一歩も進まないキリスト教の不合理さを嫌ってきたオレとしては、これは大問題なのだ。旧約聖書の神の横暴と、その信者たちの現代まで続く野蛮(アメリカ大陸のインディオ虐殺、イスラエルの現状、イラク戦争の強引さを見よ)への嫌悪感も少なからずある。

やはり聖道門のごとく、仏教には自力で仏へ近付く行が必要なのではないか…。浄土教には念仏しかやることがないが、これは行ではない。「非行非善なり」とはっきり親鸞聖人が書いている。
行をやってはいけないとは言っていない。それによって悟りが開ける人は立派だし、そういう宗派が間違いだとは言わないけど、私らにはそれができないので…というのが浄土教のスタンスなのだが、では行とはどんなものを指すのだろう? 瞑想、読経、断食、貧者への施し、托鉢、忍辱…そんなところか。
この中で釈尊生前の仏教教団では読経はやっていなかっただろう。なにしろ年代的に経典が編纂されていない。ということは仏教徒にとって読経はマストではない。他の物はやれるならやればそれに超したことはなかろうが、できなきゃどうする…あ、それが浄土教か。

瞑想、読経、断食、貧者への施し、托鉢、忍辱…それをやっていた釈尊生前の仏弟子たちと今の浄土教徒に共通点があるとすれば、「なにか大きなもの」への帰依だろう。我々はそれを阿弥陀と呼ぶが、禅では法界と呼ぶだろうか。原始仏教では悟りの世界とでも呼んでいただろう。
その帰依が問わず語りににじみ出たのが念仏であると浄土教では考えるので、念仏は行でないわけである。あくまで信の表明なのだが、ではその信が──釈迦の直弟子たちと唯一共通しているそれが──行であると考えるべきだろうか。そこにキリスト教との違いを見出していいだろうか? 誰か教えてください。
0




AutoPage最新お知らせ