2012/6/14 | 投稿者: 鹿苑院

毛利元就の次男・吉川元春は大の豊臣秀吉嫌いだったらしい。

秀吉がまだ織田家の一部将だった頃、毛利家との戦闘を担当していたが、その最中に本能寺の変が起き、秀吉軍は急遽撤退することになった。この時、元春は追撃して秀吉を討つべしと主張したが、弟の小早川隆景の「秀吉と協調するべき」という意見に押されて追撃は断念する。

毛利家が見逃してくれたおかげで明智光秀との戦闘に専念することができた秀吉が勢力を伸ばすと、毛利家も秀吉に臣従することになる。豊臣政権内での重要な地位を確保できたので隆景の狙いは的中したわけだ。しかし、それとほぼ同時に元春は隠居を宣言して吉川家の家督を嫡男・元長に譲ってしまう。隠居すれば秀吉に謁見する義務がなくなるからというのがその狙いらしく、秀吉もそれを察して「ずいぶん嫌われとるなア…」と苦笑したらしい。
後、秀吉の九州征伐の時には隠居の身ながら周囲の要請で出陣するが、秀吉が現地に着く前に病死してしまう。ついに元春は秀吉に会わないまま生涯を終えた。

吉川家を継承した元長はある日、小早川隆景と共に上洛して秀吉に謁見するが、かなりギスギスしたものになったらしい。
謁見後に秀吉が「なんか元長がずっとメンチ切ってて怖かった。今にも斬りかかってきそうな雰囲気だった」と語ると、元長は「いや本気で隙があったら斬る気だったんだけどさ、そしたら叔父上(隆景)もタダじゃすまないから。そしたら毛利家は柱を失っちゃうから我慢したんだよ」と語っているから凄まじい。
秀吉はちょっと前まで敵対していた徳川家康や伊達政宗には自分の太刀を持たせて背中を見せるという油断をわざと見せて信頼をアピールしているが、それは家康や政宗にはそこで斬りかかりはしないほどの分別があると読んでいるからなのだろう。本当にやりそうなやつにはさすがにやらないようだ。

元長も早死にしたのでその次は元春の三男・広家が家督を継ぐ。この広家は関ヶ原の戦いで東軍に内通し、南宮山の毛利軍を足止めして東軍勝利の一因を作ったことは有名である。吉川家と豊臣家はとことん相性が悪かったらしい。
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