2012/4/30 | 投稿者: 鹿苑院

オーストラリアの金持ちがタイタニック2号を造る計画。

しかし建造を受注したのが中国ってのが笑えた。沈没するところまで初代を真似る気かよ! 金持ちの癖にどうしてそう肝心なところでケチろうとするかね。
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2012/4/30 | 投稿者: 鹿苑院

新宿御苑・シアターサンモールにて公演された「異説 金瓶梅」。昨日見に行ったがいい芝居だった。原作を通勤電車の中で読んでいたのはこれに備えて予習していたためで、つまりそのくらい楽しみにしていたわけだ。

「異説」というだけに原作と違うところも多々ある。
原作では呉月娘や孟玉楼は温厚な常識人であんなに怖い女ではなく、月娘と王伯爵が密通していたという話もない。
李瓶児が潘金蓮に殺されたのは、原作ではああも直接的ではなく、瓶児が産んだ子供を金蓮が猫に襲わせて殺し、そのショックで瓶児も病にかかって死ぬ。
西門慶の死も金蓮に刺し殺されたのではなく、金蓮に限度を超えた量の媚薬を飲まされたためにキン○マが破裂して寝込んだ末に病死する。
孫雪娥は手代の玳安と結婚して幸せになれたことに舞台ではなっていたが、原作ではまったく別の男と結婚しようとし、その男が陳経済を殺して罪人になったので首吊り自殺をしてしまう。

なにしろエロい物語なので、贔屓の女優があんなことやこんなことになってるのも見る羽目になったわけで、もちろんショッキングだったんだが、そもそも金瓶梅を見に行ってそんなの見たくないというのは、歯医者に来ておいて「痛いのはイヤ」とか「キーンっていう機械の音がイヤ」とかいうのと同じで、そこに来る最低限の覚悟さえ出来ていない者が言うことである。オレもそういう人には苦労した。

オレは孫雪娥に会いたくてこの舞台を見に行ったのだけど、公演後がこの劇団の偉いところで、出演者自らがロビーに出てパンフレットを売ったり、話をしてくれたりするのだ。オレも雪娥さんを捕まえてほとんどゼロ距離でたくさん話ができた。こういうのは『数分間のもう一つの公演』と言って良い。これあるからこそ満足度が120%になった。
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2012/4/28 | 投稿者: 鹿苑院

亀田製菓のブログ炎上中。
簡単に説明すると、「農心」という韓国の企業と提携するのが批判の理由である。この農心は製品にウジ虫やらゴキブリやらネズミの頭やらの混入が相次いだことでドイツなどの国々で輸入禁止になっているそうだ。食品会社がそんな企業と提携するなんてけしからん!というわけで、これは真っ当な批判である。
ぽたぽた焼が好きだったのに残念だ。私の母親も柿ピーが好きでよく買ってくるのだが、亀田製菓の製品はもう買わないように進言しておいた。

技術を韓国に提供するというのももう失笑を通り越して呆れるしかない。
資源の無い日本が海外に技術提供したら、唯一の財産である技術が流出して、賃金の安い外国製品が日本に溢れて国内メーカーは結果的に自分の首を絞めることになる。何回も繰り返してきた失敗。誰もが見通している結果がどうして企業の重役になると見えなくなるのだろう?
団塊の世代は自分たちだけが一時的に海外から金を貰って潤えば、後の世代に迷惑が掛かっても知ったこっちゃないのだろうか? こんな人たちに「近頃の若い者は…」なんて口が腐っても言ってほしくない。
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2012/4/28 | 投稿者: 鹿苑院

これが2002年の韓国国内チャートで2位を獲得した曲らしい。韓流・K-POPが好きという人は必見の内容である。これ見てまだ好きと言えたらもう俺も何も言わんわ。

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2012/4/28 | 投稿者: 鹿苑院

南蛮文化に傾倒する織田信長に、羽柴秀吉が批判的な進言をしたことがある。南蛮(スペイン、ポルトガル)は侵略のターゲットにした国にまず宣教師を派遣して現地人の間にキリスト教徒を増やし、彼らの手引きによって侵略軍を国内に引き入れるという手口で植民地を増やしているという噂がありますという進言だ。
信長は「南蛮のような遠い国から日本を侵略するほどの大軍を送り込むことは不可能だ」と一笑に付した。

しかし、これに関して言えば信長の不明だったといっていい。スペインやポルトガルがその手口でアジアや中南米に植民地を増やしていたのは事実だし、信長のいうように南蛮の本国から軍を送らなくてもアジアの近国から送ることは可能である。
事実、ガスパル・コエリョ神父は植民地化したフィリピンから日本侵略軍を呼ぶ運動をしていたし、日本征服に成功したら今度は日本軍を率いて明国に侵攻するつもりだった。

この南蛮の悪巧みはそれを見抜いた秀吉の伴天連追放令、徳川幕府の禁教令によって完全に頓挫し、おかげで日本は侵略を受けずに済んだ。

今日乗った地下鉄の吊り広告に韓流イベントの告知があったので、上記のようなことをつらつらと書いてみた。これだから歴史を知ることは大切である。
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2012/4/26 | 投稿者: 鹿苑院

シェークスピア(と自分)の誕生日に夢中になっていて、大事なこと、忘れるはずがないことを忘れていた。
昨日25日は故・川上とも子さんの誕生日であり、サコミズ隊長こと田中実さんの1周忌の日でもあった。不義理ながら昨日の23:30を回った頃に思い出した次第。

大切な存在の人がこの世に生を受けた日でもあり、この世から去った日でもあり、その二人とももう浄土の人であるという事実。自分の誕生日だからって呑気に喜んでばかりもいられないことを感じる。歳を一つ重ねることは享年に一つ近づくということでもあるのだ。冥途の旅の一里塚。めでたくもありめでたくもなし。
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2012/4/26 | 投稿者: 鹿苑院

今日はあのシェークスピアの誕生日だ。あまり西洋文学には精通していないが、読んだ中では「ヴェニスの商人」が面白かった。「マクベス」はどっちかというと不気味な印象を受けた。

だいたいシェークスピアの作風は…いや、やめよう。まんがで読破シリーズで読んだだけでしたり顔でシェークスピアを語るとか、ウザいにも程がある。

あとなんか、シェークスピアに比べると至ってどうでもいい情報だけど、オレが今日で28歳になった。
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2012/4/25 | 投稿者: 鹿苑院

清和源氏の家宝の甲冑は『源太が産衣』という銘が付いている。赤ちゃんの産衣がすでに甲冑と言っているのだから凄まじい。その上、頼朝の幼名は『鬼武者』である。なんか松田優作似の顔で敵をバサバサ斬っていそうな名前だ。清和源氏はサイヤ人も真っ青の根っからの戦闘民族なのだ。

そんな清和源氏でも最強と思われる男が鎮西八郎こと源為朝である。この男の活躍を見ていくと、行いがいちいち桁違いである。こいつならゼットンでもキングジョーでも片付けたんじゃないかと思うほどにデタラメな強さである。

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疫病神も為朝を恐れて逃げる図。


粗暴な性格ゆえに13歳の時に父に勘当されて九州に流されるが、その九州をわずか3年で全土征服してしまう。16歳で九州統一──こんなガキ日本史上他にいない!

保元の乱の時には平清盛と戦うが、為朝の弓の威力たるや、平家軍の武士の身体を貫通して更にその後ろにいた男の鎧に突き刺さるという信じられない破壊力を見せ、平家軍は怖気づいて為朝を避けて他の戦闘部署に回ってしまう。それでも一人、あの平重盛だけは為朝に突撃しようとして周りに止められているのだからたいしたものだ。

為朝の奮戦にも関わらず保元の乱は敗戦に終わったので、為朝は弓を射ることができないように腕の筋をはずされて伊豆大島に流罪となったが、そこでも傷が癒えるとまた暴れ出し、伊豆諸島をまたたく間に切り従えてしまう。

この為朝の所業に対してついに討伐の院宣が降り、その大軍を目にした為朝は抵抗しても無駄であろうと観念してそこで自害するのだが、その前にせめて一矢だけでも報いてやろうと考えて本当に1本だけ放った矢が軍艦を沈没させ、300人が溺死しているのだから最期まで恐ろしい。なお、その後で為朝が腹を切って自害したのが日本最初の切腹であり、武士の自害のスタンダードになった。

ただし、死なずに琉球に落ち延びて琉球王家の祖となったという説もあり、ただの珍説かと思いきや琉球王朝ではそれが正史となっていたりする。真偽はわからないが、沖縄には為朝上陸の記念碑が建てられている。
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2012/4/24 | 投稿者: 鹿苑院

度の過ぎる韓流ゴリ押しに抗議する署名を受け取らず、「抗議される筋合いはない。嫌なら見るな」と言い放ったフジテレビが視聴率大苦戦。

ま、嫌なら見るなと言われた通りにみんなしてるだけだから文句は無いはずだよね。
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2012/4/23 | 投稿者: 鹿苑院

昨日は聖徳太子が織田信長に太刀を授ける話を書いた。実は太子からアイテムを授かったのは信長だけではない。徳川家康の象徴である金扇の馬印、あれもそうなのだ。

馬印とは本陣に置いて、家康その人がどこにいるかをはっきりさせるための目印にする物。そのため合戦を描いた絵図などでも家康の頭上に必ず描かれている。


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豊橋の聖眼寺に伝わる伝承では、
「永禄七年吉田ノ城主小原肥前守鎮実ヲ攻メ給ハントテ、神君当寺ヲ陣営トナシ給フ。則チ聖徳太子ノ宮殿ニシテ、天下泰平ノ事ヲ祈り給フ。或夜御夢中ニ雙扇ヲ感得シ総フノ御奇瑞アリ。夫ヨリ一扇ヲ以テ馬幟トシ、牧野康成先陣ニ進ム。一扇ハ当寺ニ止メテ霊法トナサシメ給フ。」
とある。

つまり、家康が吉田城を攻める時に聖眼寺を本陣とした時、そこにあった聖徳太子像に天下泰平を祈った。すると家康の夢枕に聖徳太子が立ち、金扇を二つ授けたので、一つは馬印とし、もう一つはそのまま寺の宝物になった──ということだ。
寺に残った方は後に四代将軍家綱の時代に鑑定され、家康の馬印と寸分違わぬ物であることが証明されている。

ずっと後、鳥羽伏見の敗戦後に徳川慶喜がこの馬印を大坂城に置き忘れたまま江戸に逃亡し、新門辰五郎がこれを拾って江戸まで届けたことは有名である。
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