2011/11/30 | 投稿者: 鹿苑院

沖縄防衛局の局長が不適切発言で更迭された一件。世間では激しい非難が多数寄せられているらしいが、オレにとっては不思議な気もする。居酒屋でのオフレコ発言だったというではないか。酒も入っていたかもしれない。オフレコで酔っ払ってエロい例え話をするくらいが更迭されるほど悪いことかと疑問である。オフレコのものをわざわざ報道して起きなかったはずの騒動を起こす意味は?
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2011/11/27 | 投稿者: 鹿苑院

某掲示板よりコピペ。

法華経は最高の教えなので それを誉めるだけでも御香をささげ飾るだけでも
所持するだけでも仏画を描くだけでも石を積むだけでも成仏できるとある
そのような最高の教えなので日蓮宗に入る必要は全く無い
日蓮宗の起こる遥か過去から数多くの仏国土でインドで中国で法華経崇拝はなされた
法華経には仏や仏のことを一寸でも念ずれば成仏できると書いてあり
日蓮宗になれとは一言も無い ましてやカルト的な教義など全く無い
答え=法華経は最高の教えであるから特定の宗派に入る必要は全く無い むしろ日蓮の他宗排撃は法華経の内容と正反対だった


引用終わり。
この書き込みは言い得て妙である。日蓮仏教の持つ本質的な弱点というのはここだろう。司馬遼太郎氏はかつて、日蓮宗の僧侶出身である斎藤道三を主人公とした「国盗り物語」を書くための下調べに法華経を読んでみたらしいが、どう考えても法華経から日蓮宗が出てこなかったと語っている。曰く「素直な当たり前の平々坦々たる、気負い立ったような、これでなかったらあかんとか、これを信仰しろとか、そういうあくの強いところは一切ない普通のなだらかなお経」と書いている。

私は日蓮が嫌いなので、つい日蓮について書く時は筆が辛口になってしまうのを自覚しているが、ここの所は本当に不思議なのだ。法華経には阿弥陀如来も登場するのに、日蓮系諸宗では「阿弥陀なんて架空の仏を拝む浄土教は邪宗だ!」なんて平気で言ったりする。もしオレが日蓮と会話できるなら、「あなた本当に法華経を読んだんですか?」と聞いてみたいとかねがね思っている。
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2011/11/26 | 投稿者: 鹿苑院

談志師匠の戒名(雲黒斎)がオレをノックアウト。

さて、オレの法名「釈慈照」は今までは私称だったが、このたび本山・西本願寺より正式に認可を受けた。もはや私称ではなく、三千世界に通じる名前である。

この名前は元々は洒落なのだ。まず鹿苑院という院号ありきで(これはいまだに私称)、鹿苑に続くのは…と考えたら慈照しか無い道理である。鹿苑寺金閣と慈照寺銀閣というわけだ。
そんな洒落だったのだが、後付けのように「銀閣のように落ち着いていながら独自の世界を持った存在になりたい」という心境にもなり、母方の祖父が浄土に往ったら戒名が「米照」になって「照」の字で繋がりを感じたり、その「照」の字はよくよく考えたら敬愛する徳川家康の神号「東照」にも通じていたりと、もう他の法名は考えられないというまでになった。

帰敬式は来年1月、京都西本願寺にて。
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2011/11/22 | 投稿者: 鹿苑院

昭和の敗戦までの日本の歴史を俯瞰すると、日本の政権は二つの勢力の間で奪い合いが行われてきたことがわかる。その二大勢力とは、一に朝廷、二には主として東国を基盤とする武家政権である。日本の歴史とはすなわち、朝廷勢力と東国武家政権とのせめぎ合いの歴史なのだ。

人は源頼朝をもって東国武家政権の創始者と呼ぶが、これは不適切であろう。その栄誉は平将門にこそ冠せられるべきである。ただ、その時代の語彙として、征夷大将軍とか幕府という言葉に朝廷を抑えて政務を執る役職及び機関という意味がなく、そのため将門は新たな天皇・新たな朝廷を名乗らざるを得なかったのだろう。もし将門が頼朝より後の時代の人なら、迷わず征夷大将軍になって東国に幕府を開いたに違いない。だから、将門を指して朝廷に弓引いた逆賊と呼ぶのは正しくなく、先駆者ゆえに真意を理解されずに誤解されたのだと私は思う。

鎌倉幕府の三代将軍実朝は将門の伝記を絵巻物にまとめさせているし、最も完成度の高い東国武家政権である江戸幕府は将門を祀る神田明神を江戸城の鬼門に配して江戸総鎮守とした。徳川家光はわざわざ700年も前の事を朝廷に掛け合って、「将門は朝敵に非ず」と認めさせている。歴代の東国武家政権には、その創始者である将門の遺志が、夢が、ずっと受け継がれていたのだ。

江戸幕府が倒れて後、政権は朝廷の手に復したが、(長い日本の歴史から見れば)驚くべきことにその朝廷が東国に移転している。東国武家政権を贔屓する目から見れば、これも一つの快事には違いない。
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2011/11/22 | 投稿者: 鹿苑院

日本シリーズ最終戦を振り返って一言。

この貧竜打線が!!!!!

あまりにも打てなさ過ぎる。打てないにも程がある。
試合内容だけ見ればまるでプロとアマの試合のようであり、とてもセ・パ両リーグを勝ち抜いて3勝vs3勝で天王山までもつれ込んだチーム同士の最終決戦とは思えないほど不甲斐無い試合だった。というか、どうやってこれでリーグ優勝したのかが不思議にすらなる。

しかし見方を変えれば、これだけの打てない打線でもここまでの成績を挙げられたということは、如何に守備が優れているかを示しているとも言える。ドラゴンズの場合、投手陣のみならずセンターラインにアライバがいるから野手陣も固い。その辺りが強さの理由に違いない。
打撃はどんな凄いバッターでも3割しか打てないが、守備はやろうと思えば10割の成績が狙えるものだ。そこに注目して磨いた落合監督はやっぱり野球をよく知っている。…と野球をたいして知らないオレが偉そうに書いてみる。
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2011/11/19 | 投稿者: 鹿苑院

6戦終わって3vs3か。よほど実力が伯仲しているらしい。素晴らしい熱戦になることを願って敵方ホークスの応援歌を載せたこのブログの記事も浮かばれることだろう。

隣の芝は青いというか、オレの目からはホークスの方が強そうに見える。このあたり、ホークスファンの目線からはドラゴンズの方が強そうに見えているのかもしれない。

勝っても負けても明日が最終決戦。日本一の竜を見たい! 竜と鷹じゃ竜の方がデカいんだぜ!!(←実在しないけど)

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2011/11/17 | 投稿者: 鹿苑院

比叡山の入口にはこんな看板が立っている。

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そうか、5時半以降は入れないのか。じゃあ信長が焼き討ちに来た時も、
「すいませ〜ん。尾張の織田と申しますが、焼き討ちにお邪魔したんですけども。」
「あ〜、すいませんねえ。もう入山できる時間過ぎちゃったんで、また明日にでもお待ちしておりますので今日の所はお引取り願えませんか?」
「う〜ん、そう度々ここには来れないんだけどねえ…。しゃーない、また機会作って来ますよ。」
「すいませんねえ、わざわざ来ていただいたのに…。」

なんてやり取りをすれば焼き討ちを免れたのではなかろうか。そんなわけはない。

さて、一歩入るとまたこんな看板が立っている。

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ああ、そりゃ間違ってはいないよ。確かに法然上人800回、親鸞聖人750回の大遠忌だし、両人とも比叡山で修行していたからゆかりの地には違いないよ。
でもねえ…、浄土宗も浄土真宗も比叡山には随分いじめられたと思うんだけど。比叡山と興福寺の抗議によって法然上人の弟子の中には死刑にされる者まで出て、法然上人も親鸞聖人も流罪になっているし、法然上人の墓は比叡山の僧徒によって暴かれているし、最初の本願寺は比叡山の僧兵によってぶっ壊されてるし、蓮如上人は比叡山を指差して「あれさえなければなあ…」と愚痴ったというくらいなのに。そこまでの弾圧を加えといて両宗派がビッグになった今になって「あれはうちが発祥なんだぜ」と言わんばかりの態度はどうなんだろう。よりによって土井正三が「イチローを育てたのはオレだ!!!」と言うようなものである。 三井寺なんて山法師に追われて逃げてきた蓮如上人を匿った上に本願寺の宝の親鸞聖人の像まで逃走に持っていくのは荷物になるから辛かろうと預かってくれたんだよ。もっともその後で本願寺の再興がなった暁には「返してほしけりゃ人間の生首2つと交換ね!」と僧侶としての良識を疑うようなことを言い出してるけど。

さて、そんなこんなで散々ディスってはみたけど、やっぱり比叡山は仏教ファンには魅力のある地であることは認めざるを得ない。時間の関係で今回は東塔を巡っただけで終わったが、西塔や横川もまたゆっくり訪れてみたいものだ。なお、帰りがけに東塔大講堂の裏から坊さんがベンツに乗って出てきた時は、かの白河上皇をも嘆かせたという、今も昔も変わらぬ叡山の富強を見た思いがした(号泣)。
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2011/11/14 | 投稿者: 鹿苑院

長等山園城寺(通称三井寺)と比叡山延暦寺に行ってきた。古文の世界では単に「寺」といえば三井寺、「山」といえば比叡山を指すということを習ったことを記憶している人も多いだろう。三井寺は元々比叡山の傘下だったが比叡山の主流派と対立して独立したという経緯を持っているので、同じ天台宗でありながら死ぬほど仲が悪く、武力衝突も頻繁にしている。やはり比叡山の方が本家であり、しかも山上から平地にある三井寺に攻め降りる勢いがあるので圧倒的に有利で、対戦成績は比叡山の勝率の方がはるかに高い。

そんな抗争の中、比叡山の僧であった武蔵坊弁慶が三井寺から分捕ってきた鐘が有名である。これは今は三井寺に返されているが、重さ2250kgと書かれていた。いくら怪力の弁慶でもこれを持って比叡山に登るのは無理だろうと案内のおじさんに聞いてみたら、
「いや、そりゃあ繰り出した何人もの僧兵で担いでいったんだと思いますよ。いくらなんでも一人じゃ無理です。」
とのことだった。
ふーん。そうか、じゃあ比叡山側の絵看板を見てみよう。

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一人で引き摺ってるじゃねえか!!!
なんと恐ろしい力…。常人なら2250kgを持って登山どころか1秒も持ち上げることさえできないと思うが…。それにしても弁慶、おまえ本当に人間か? もしかしてグレート・アントニオか?

さて、比叡山と三井寺の仲の悪さというものは各時代ごとの動向にもよく表れている。比叡山が平家に付けば三井寺は源三位行政の挙兵に協力し、比叡山が後醍醐天皇を支持すれば三井寺は足利尊氏に味方し、比叡山が浄土真宗を弾圧して蓮如上人の命を狙えば三井寺は上人を匿い、織田信長が比叡山焼き討ちをする時には三井寺が信長本陣になる…といった具合である。こうして見るとオレが各時代ごとに支持している勢力には大概三井寺の方が味方していることがわかるので、自然オレも寺門贔屓になるわけである。

さて、蓮如上人が三井寺の庇護を受けていた関係で、三井寺には浄土真宗関係の遺跡も存在する。その極めつけの結晶がこの名号と親鸞聖人・蓮如上人の木像である。観音堂に安置されているとの案内書きはあったが姿は見えず。よ〜し、あそこで朱印書いてる爺さまに聞いてみよう!

「あの〜、すいません。つかぬことをお伺いしますけど」
「はいはい、なんでしょ?」
「親鸞聖人と蓮如上人の像を見たいんですけど」

こういうのは大体、一般の参拝所から見えなきゃ見せてくれないのが常で、どうしても見たければ特別開帳の時にでも来いというのが普通である。ま、どうせ見せてくれないだろうがダメ元で聞いてみるかというくらいの気持ちだったが、

「あ、そうですか。じゃ靴脱いで中へどうぞ」
とあっさりと内陣に入れてくれた。


おおお…

もし山門と寺門がまた武力衝突したらオレは僧兵になって寺門の軍に加わります。

こんな事情で親鸞・蓮如の二聖に対面したオレはすっかり三井寺のファンになってしまった。その後で比叡山に登ったが、長くなるのでその話は次回に続く!
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2011/11/11 | 投稿者: 鹿苑院

TPP参加がほぼ決定か。これで日本も事実上米国の属国に成り下がるかもしれない。140年前、欧米列強と対等に渡り合える日本を夢見て幕末・維新を戦った男たち、日本の繁栄を願いながら太平洋戦争に散った英霊、さらには関税自主権を回復するために尽力した小村寿太郎先生に野田首相はどんな顔をしてまみえるつもりなのだろう。

.───┐    ∠_      \L
 ̄ ̄ ̄| |     llヽ _|      ヽ  
      | |     |l ̄| |       l 日本ってドラえもんのいた未来ではどうなってんの?
      | |    /  ´\     /        
      | |     ヽ、_   `^イ          
二二二 」 _ __ lニ二二l、           ____
─┴┐ ⊆フ_)__./   ┌ヽ ヽ┐   /´       `\
二二二二二二l  /    |  |   | |.  /             ヽ
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  |       /`ヽ__, ─ 、ノ |─l  l               l   
  |───/  /lニ/  /二ニluul.  |                 !    え?そんな国無いよ
  |    ___| ̄ |  |  |_|.      l                /
 └─(    )(ニ|  ̄|./二ニ)     ヽ              /
      ̄ ̄  /   )            >━━━━━━ く
            `ー ´            /               ヽ
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2011/11/9 | 投稿者: 鹿苑院

織田信長は臣従した松永久秀を徳川家康に紹介する時、こう紹介したらしい。
「この老人は普通の者にはできぬことを3つもしている。主君を殺し、将軍を殺し、大仏を焼いている。」
あんまりな紹介の仕方だが、信長が言う資格もないだろう。自分だって主筋に当たる織田信友を殺し、将軍足利義昭を都から追放し、比叡山を焼いているではないか。

さて、松永久秀が将軍足利義輝を殺したのは間違い無いにしても、あとの2つは実は疑わしい。主君とは三好義興のことだが死因は病死であって久秀が暗殺したという証拠はなく、噂に過ぎないし、大仏を焼いたのももしかしたら久秀ではないかもしれない。

奈良の大仏殿が焼けたのは松永久秀と三好三人衆が東大寺を舞台に戦った時の事だが、「足利李世紀」という記録には三好方の陣小屋の失火が大仏殿に燃え移り、戦争中だったので消火する暇もないままに燃えてしまったと書いてある。「大和軍記」ではやはり三好方の鉄砲の火薬に点いた火からの失火であると伝えているし、ルイス・フロイスの「日本史」では三好軍にいたキリシタン兵が意図的に大仏殿に放火したと書いている(ちなみにフロイスはこの兵を「勇敢なる兵」と賞賛している)。
この3つの記録はいずれも大仏殿焼亡の原因を三好方に求めるものであり、これらを信じるなら久秀には原因は無いことになる。後に久秀は織田信長に反旗を翻し、鎮圧に来た織田軍のために大仏殿が焼亡したのと同じ10月10日に死んでいるので、これぞ仏罰と噂されたものだが…。
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