2011/9/29 | 投稿者: 鹿苑院

中山身語正宗なる宗派の僧侶と信者が、その娘を除霊のための滝行とやらで窒息死させる事件が起きた。宗派の発表では「滝行はあるにはあるけど自発的にやるもので強要するものではないし、除霊という意味合いはない」とのこと。この発表がトカゲの尻尾切りでなく正直な話だとしたら、これは最早宗教とは関係ない所で起きた、ただの殺人である。実際、中山身語正宗は胡散臭いカルト宗教ではなく、普通の仏教団体のようだ。だとするとやはり悪いのは容疑者2人のみか。
もし他に悪者を探すとしたら、昨今のテレビ局がそれに当たるかもしれない。一時期ホソギさんやらエハラさんやらミワさんやらをやたらテレビに出して、霊が本当にいると断定するかのような放送を垂れ流していた罪は誰が責任を負うのか。

このブログを長く読んでくださっている方ならもう先刻承知だと思うが、仏教には除霊などという概念はない。そもそも霊というものの存在にも否定的である。だから、仏教僧を名乗りながら除霊だのなんのと言い出す輩がいたら、間違いなく仏教のなんたるかも知らぬインチキ野郎だと思って差し支えない。

かつて司馬遼太郎氏は親鸞聖人を指して「生まれついて非宗教的家的な体質」と評したことがあるが、この指摘は言い得ている。そしてさらに私が思うには、同じことは釈尊その人にも言えると思うのだ。除霊だの悪魔祓いだの、古代インドのバラモン教で盛んだったそういう物に嫌気がさしたから、そこから離れて釈尊は仏教を開いたはずなのに、何故か自称仏教の中からそういうことをする者が現れて、そればかりが耳目を集めるために仏教自体がそんなものという誤ったイメージが蔓延する。これは真面目な仏教徒には迷惑この上ない話。

最後に、ふざけているように聞こえるかもしれないがかなりマジに。
全国のナカヤマシンゴ君がこれをきっかけにいじめられることがないようにと願っている。
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2011/9/28 | 投稿者: 鹿苑院



入場シーンはプロレスの華だが、この曲が入場テーマだとその華がしおれてしまう。本人が歌ってるんだから使いたい気持ちもわかるが、う〜ん…。
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2011/9/27 | 投稿者: 鹿苑院

前項の続き。漫画に続いて次はアイドルを擁護したい。

世の「オトナ」は能を芸術と呼ぶだろう。歌舞伎、茶道をもそう呼ぶに違いない。先代の鹿苑院・足利義満が能を保護したことを、芸術を理解する床しい精神と捉えているであろう。

しかし、当たり前だがどんな伝統芸能も生まれた当初は前衛であり、頭の固い人々の眉を顰めさせるものであったことを忘れてはならない。観阿弥・世阿弥の能は義満の没後にその子の四代将軍足利義持に嫌われて迫害を受けたし、出雲の阿国の歌舞伎踊りもいかがわしいものとして捉える人も少なくなかった。それが今では、能や歌舞伎を芸術と言ったとしても笑われることは皆無である。

だとしたら、例えば世の「オトナ」が蔑み軽んじる(とまで言ったら言い過ぎだろうが、大意を理解されたい)AKB48を芸術と呼んで何がおかしいのだろう。観阿弥・世阿弥に莫大な援助を寄せた足利義満とAKB劇場に通うアイドルファンとの間にどんな差異があるのか。
そう考えると、芸能人・アイドルのファンを「ミーハー」と切り捨てる人も歴史主義者の私から見れば「歴史をわきまえない者」と呼べる。繰り返し言おう。──「文化に尊卑なし」。
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2011/9/27 | 投稿者: 鹿苑院

昔の中国では小説というものは子供の読む物とされており、あまり程度の高い物とはされていなかった。だから「小」という文字が付けられて貶められているのである。いい大人は詩を読むものだった。つまりその当時の小説は今でいう漫画のような扱いを受けていたわけだ。

今や小説は高尚な物になり、小説家は文化人の代表とも言える。このことから考えれば、数十年、数百年後には間違いなく漫画は高尚な物になり、漫画家は文化人の代表になるだろう。その時には他の何かがもっと低い物とされて迫害を受けているだろうが。

そういう理由から、歴史主義者の視点から見ると漫画を程度の低い物として貶めるのは「歴史をわきまえない者」のすることに他ならない。断言しよう。──「文化に尊卑なし」。
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2011/9/25 | 投稿者: 鹿苑院

19世紀後半から20世紀にかけて、西洋の学者が本格的に仏教の研究を始めた。経典を研究した研究家、学者達が揃って云った言葉がこれだ。
「仏教は宗教ではない、哲学だ…」
自然科学の分野に入る人間学だと云う結論。

私もこのスタンスをとる。だから私は仏教に帰依しているが自分が宗教的だとは思っていないし、世の中に氾濫する迷信の類いには人よりも強く眉をひそめる方である。「宗教」という言葉を世間のイメージ通りに意味づけするのなら、それをオレほど嫌っている人間も珍しいと思う。

ただ、世の「オレは無宗教」と称している人々とは一線を引く。まず十中八九こういう人は「宗教でなく哲学としての仏教を信奉している」という意味ではなく、本当になにも信奉していないという意味で無宗教を称しているだろう。これが私には不思議なのだ。どうしてそういう恥ずかしいことを平気で公言できるのかが不思議で仕方がない。だって自分の生き方の背骨の部分、ポリシーがないと言っているのと同じじゃないか。
無論、生き方の背骨・ポリシーになりうるのなら、宗教とか高度な哲学でなくても良いと思う。猪木イズムでも良いし、マオイズムでも良い(個人的には後者とは友達になりたくないが)。

何も信奉していないという奴、自分の目で見たものしか信じないという奴(たかが100年の人生で世界の全部が見れると思っているとしたらとんでもない思い上がりである)に限って、平素は傲慢になる。そして病気などで苦しむとコロリと変なカルト宗教に入信してしまう。あらかじめ「生き方の背骨」を持っていたらこういうことにはなり得ない。
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2011/9/23 | 投稿者: 鹿苑院

「称讃浄土仏摂受経」。

日本の仏教徒にはあまり馴染みのない経典かもしれないが、今この経典にすごく興味がある。一度だけこの経典が記された巻物を滋賀県の博物館で見たが、全文に目を通したことはない。それが読める場所を探しているところ。

「日本の仏教徒にはあまり馴染みのない」と書いたが、実は完全にそうというわけでもない。浄土宗や浄土真宗の家なら「仏説阿弥陀経」があるだろう。この日本の仏教徒にもお馴染みの経典の、そのサンスクリット語の原本、それを鳩摩羅什という高僧が漢文に訳したものが「仏説阿弥陀経」で、西遊記の主人公である玄奘三蔵が訳したものが「称讃浄土仏摂受経」なのだ。だから基本的な内容は多分「仏説阿弥陀経」と同じなのだろうけど、西遊記ファンのオレには玄奘三蔵が訳したということに意味があるというワケ。

Wikipediaにはこの「称讃浄土仏摂受経」に関して「異民族を差別する思想が見られる」とあるが、どんなことが書かれているかまでは説明されていないので、ここが気になる。「大唐西域記」を読んでも中華思想に塗れているとは思えないあの玄奘法師が悪意を持ってそのようなことを書くとはちょっと思えないので、昔のドラマとかを見ていると出てくるテロップの「当時の時代背景に鑑みて、差別を助長する目的ではないこと、また作品のオリジナリティを尊重してカットしませんでした」というやつだと思う。多分。
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2011/9/21 | 投稿者: 鹿苑院

せっかく抽選を当ててチケットを手に入れたイベントを、地方暮らしの悲しさで明日の仕事の都合と台風の影響のためにどうしても時間制限ができ、途中退出せざるを得なかった。今まことに悔しい気持ちでこれを書いている。しかしモギリの外ではおそらく抽選に外れたのであろうファンが洩れる音だけ聴いていた。こいつらに比べりゃオレなんてまだ幸せだよなと思えば少し気が楽になった。

これに似た、しかももっと切実な悔しさを歴史上の英雄も味わっていたと言ったら驚くだろうか。武田信玄、上杉謙信の両雄である。「ええっ、信玄や謙信も黒ネコ同盟に入っていたの!?」というのは愚かな質問なので却下する(当たり前だ)。

戦国トップレベルの強兵を擁しながらこの両雄が天下を取れなかった理由、それは京の都から遠い本拠地を長く空けていられなかったということにある。どんなに戦局を有利に展開させたとしても徹底的に織田信長を叩いて上洛するのは物理的に無理な話で、農繁期になればどうしても甲斐や越後に帰らざるを得なかったのだ。織田信長が天下取りに最も近付けたのはこの逆の条件が揃っていたからだ。信長の領国は京に近く、しかも織田軍は傭兵制なので土地にも縛られない。時間制限なく戦い続ければ上洛できたであろう信玄や謙信が、その都合で兵を退かねばならぬ時、今日のオレなどとは比べ物にならぬほど口惜しかっただろう。

こういう時、歴史主義者で良かったと思う。楽しみにしていたイベントを途中退出するという普通は不快でしかない出来事さえ、自分を英雄に重ね合わせてここまで興深く随想することができるのだから。これだから歴史主義者はやめられない。
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2011/9/20 | 投稿者: 鹿苑院



NHK大河ドラマ「徳川慶喜」OP。1:23あたりに注目!!
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2011/9/19 | 投稿者: 鹿苑院



前記事で西遊記の話が出たので、Play Stationソフト「西遊記」を思い出した。主人公の三蔵法師は男か女かを選べるという斬新なシステムで、女を選べばCVは:,。☆・:,。゚・:,。☆堀江由衣さん゚:,。☆・:,。゚・:,。☆だったのだが、三蔵法師を女とする風潮に反感を持っているオレは男を選んだ(CVは保志総一郎さん)。ああ、歴史主義者として生きるのはつらいなあ。

原典西遊記のファンからもかなり評価が高く、オレも夢中になったのを覚えている。孫悟空は満月を見なくても大猿になって一挙に敵をぶっ潰すこともできるし(上のようつべ画像でも最後に大猿化します)、パーティはおなじみの4人だけではなく途中で加わる仲間も多い(金角・銀角や牛魔王も仲間になる)。

そのパーティーが三蔵だけを残して全滅した時はゲームオーバーを覚悟したもんだが、敵も相当に疲弊していたので三蔵だけで闘い続けたらなんと勝利したこともある。ちなみに三蔵の特技は呪文を唱えて攻撃や回復をするものだが、その時はMPも無くなっていたので普通の攻撃しか無かった。三蔵の普通攻撃はどんなものかというと、錫杖で殴りつけるというものである。確かに痛そうだけど、お師匠様、錫杖はそうやって使うものじゃないと思うよ。

ちなみに、天竺に辿り着いたらそれがニセ天竺だったか荒廃しきった天竺だったかで、実はその後に続く暗黒面にラスボスが待っているとかいう展開になり、暗黒面は難し過ぎたのでその辺で断念した。だからまだ全クリしていない。
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2011/9/19 | 投稿者: 鹿苑院

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七福神の一人、布袋尊が昔から好きだ。唐の末期頃に寧波に実在した仏教僧で、法名は釈契此といったらしい。「布袋」という名は托鉢で貰った物を袋に入れて歩いていたことに由来する。貰った物は生臭物でもお構いなしに気持ちよく食べていたため、極度に肥満して我々が知る太鼓腹になった。
(ちなみに、我らが蓮如上人は幼名を布袋丸といった。浄土真宗には布袋尊を拝む習慣は無いが、そういう接点からの親しみは持っていいと思う。)

パブリックイメージでは布袋和尚を禅宗の僧としているようだが、それを裏付ける資料はどこにもない。本当に禅僧だったかもしれないが、密教僧だったかもしれないし念仏僧だったかもしれず、本当の所は不明のままである。

ただ、布袋和尚を弥勒菩薩の化身であるとする説が中国で流行り、このために中国で「弥勒菩薩」といえば布袋尊の姿を思い浮かべる人も多数いるようだ。
「西遊記」でも正体不明の妖怪に苦戦した孫悟空を助けに弥勒菩薩が援軍に駆け付けるシーンがあるが、中国の古書でもその挿絵は布袋和尚の姿をしているばかりか、悟空が「お笑い和尚」と呼んでいるシーンもあるので、「西遊記」の作者が布袋尊をして弥勒菩薩としていたことは明らかである。
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