2011/7/5 | 投稿者: 鹿苑院

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赤壁の戦を指して「天下分け目の戦」と呼ぶ人もあるが、これは正しくない。この戦に勝利した呉と蜀(厳密には劉備はこの時期まだ蜀を領有していないが)は最後は魏およびそれを継承した晋に滅ぼされているからだ。赤壁の戦に敗北した方が結局天下を獲っているのだから、これを天下分け目の戦と呼ぶことはやはりおかしい。

その赤壁だが、書によっては昔からその地名としてあるように書かれており、戦前から登場人物が「赤壁」という言葉を使っている物もあるが、本当はこれもおかしい。この戦の決め手となった火計により魏の船団が炎上し、その炎が岩壁に映って赤く染まったことが赤壁という地名の由来だからだ。これがなく従来の地名のみで命名するならば、「烏林の戦」とでも呼ぶしかなくなる。
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2011/7/5 | 投稿者: 鹿苑院

劉備の建てた蜀漢を後漢に次ぐ漢の後継王朝と認めるか、それとも後漢から禅譲を受けた魏をあくまでも唯一の王朝として蜀は一地方政権と見るかで中国史の見方は変わる。
学校教育では魏を中華の王朝として認めているような教え方だった。漢のみを特別視せず、栄枯盛衰を繰り返した他の王朝と同列視すればそれは自然な見方であり、一理ある。

しかし、前漢、後漢に次ぐ漢王朝の流れとして蜀漢をカウントするのもありだと私は思う。後漢の光武帝も前漢の皇室から見れば庶流だし、後の歴史を見ても北魏に都を奪われた晋の皇族が新たに建国した東晋を晋の続きと認めることにも誰も異論を挟まない。南宋の例も同じことである。都を奪われたとか、庶流だからということはその後継王朝を認めない理由にはならないことがこれで解る。ゆえに、蜀漢もまた漢王朝なりと私は断ずる。

しかし、だから魏を認めないということでもない。魏も中華の王朝としてカウントするべきである。いくつもの王朝が交代を繰り返す大きな歴史の流れから、どの王朝にも公平な目で見た時は魏も蜀も呉も王朝として見做すことができるし、あくまでも漢を絶対として、(漢への)尊王の立場からその時代史を見れば蜀のみが正統となる。私は漢の臣下ではないから前者の見方になるので、蜀漢を漢と認めながらも、それ以外を排する立場は取らない。
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2011/7/5 | 投稿者: 鹿苑院

松本復興相は長幼の序とかほざいたり、血液型性格診断を公の場で出したり、オレの嫌いなタイプの人間だなあ。一言で言って、賢そうに見えない。

しかし自民党の石原伸晃氏が松本復興相を批判してたのも滑稽だった。他人の態度や言動を批判する前にてめえの親父を見てみろって。「五十歩百歩」ならぬ「百歩五十歩」だよ。
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