2010/11/30 | 投稿者: 鹿苑院

人に好かれる可愛気とか話しかけやすい雰囲気とかはもう天性のもので、持っている人は生まれた時から持っているが持っていない人は百年修行しても身に付けられないものだと思う。私には無い。まあ、無いなら無いなりの生き方を考えれば良いのだが。
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2010/11/29 | 投稿者: 平慈照

以前に、平将門公はおそらく天皇に取って代わろうとしたのではなく、後の世でいう幕府を開いて将軍になりたかったのだろうという論を書いた。つまり、京都朝廷を否定したのではなくそれとは別の次元の政権を作りたかったのだ。ただ、当時の語彙では征夷大将軍とか幕府という言葉はあっても、後の時代のように「征夷大将軍=国家元首」「幕府=政府」という用法はなかったので、将門公も自分の意図を上手く表現できず、「例えば天皇のような政権の長」という意味で新皇を名乗ったに過ぎないと思う。そしてそれが誤解を招いた──。

ではもし、将門公が京都朝廷を打倒して日本全土を支配するようになったら(その意思は無かったと私は確信するが百歩譲ってifを考えた場合)、朝廷の廃絶・天皇制の廃止をしただろうか。将門公の天下獲りは王権の危機になっただろうか。
私はその可能性はなかったと考える。京都朝廷を打倒した場合、将門公はきっと皇位に就いただろう。桓武天皇の皇胤なのだからその資格が無いこともない。つまり朱雀天皇の次、第62代天皇になるだけで朝廷や天皇を廃止することは無い。明の朱棣は建文帝に反旗を翻してこれを倒し、帝位に就いて永楽帝となったが、それまでの初代朱元璋以来の皇統を否定して新王朝を開くのではなく、明朝の三代皇帝になった。それと同じことである。つまり、天慶の乱は将門公による「反乱」ではなく、壬申の乱のような「皇族内の帝位争いの延長」と考えて良い。もっと言えば、将門公には朱雀天皇を廃する意思もなかったので、自分が帝位に就くのではなく朱雀天皇を立てて自らは摂政になるにとどまったかもしれない。こう考えると将門公の挙兵はどう転んでも王権の危機ではなかったことになる。朝敵に非ず。
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2010/11/28 | 投稿者: 鹿苑院

8月に亡くなった山本小鉄さんの後を追うように、ヤマハブラザースのタッグパートナーであった星野勘太郎さんが亡くなった。専ら指導者に回った小鉄さんとは対照的に、近年まで表舞台に出続けており、魔界倶楽部総裁としての「ビッシビシいくからな」の台詞が印象的だった。

ちょうどその頃、神戸に観戦に行ったが(星野総裁提供賞金1千万円トーナメント)、魔界倶楽部総裁というヒールとして振舞いながらも、目が合ったり声援をくれたお客さんにこっそりと一瞬だけ頭を下げていた姿が懐かしい。悪人になりきれない人柄の良さを感じさせる微笑ましい姿だった。
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2010/11/28 | 投稿者: 鹿苑院

なんか妹が年内に結婚するとか言い出しました。相手はグリコ森永事件の犯人みたいな面した男です。おめでとうございます。ありがとうございます。
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2010/11/26 | 投稿者: 鹿苑院

聖徳太子大好きな私が儒教の批判をしていることに矛盾を感じている方もいるかもしれない。太子が儒教をも学んでいたことは日本書紀に記述があるし、十七条憲法にも儒教の影響があるからだ。この問題はスルーする気だったが、敢えて向き合ってみよう。

「儒教だからその思想はすべて悪い」などというのはそれこそ儒教的である。つまり、何を言っているかで理非曲直を判断せずに、誰が言っているかで決め付ける。しかもどんなものにも長所短所があることをわきまえずに、君子と決めたら全肯定、小人と決めたら全否定という儒教の悪いところそのままな考え方である。俺みたいに狭量なやつはついそういうことを言ってしまうが、さすが聖徳太子のような人は儒教の中からも有用な部分を抜き出して採用する賢さを持っている。

では儒教サイドからは聖徳太子という人物をどう見ているのだろう。
江戸初期の儒教学者で、徳川家康の側近だった林羅山は聖徳太子を「仏を好むの罪」と評し、崇峻天皇暗殺の黒幕を太子と決め付けている。なんてことをいうのだろう。こんなのを側近に置くとは家康様のミステイクだぜ。
やはり儒教にかぶれていた徳川光圀(水戸黄門)が編纂した「大日本史」の安積澹泊(格さん)が担当した部分にも聖徳太子への人物評があるが、太子が仏教を広めたことが「神への冒涜」とか「国の崩壊の元」とか書いてあり、中臣勝海の殺害も太子の仕業であるとし、最後に林羅山の太子評は完璧ですと結論付けている。なんてことを言やあがる。格さんのバカ。ファッキンシット!!

…というわけで、聖徳太子は儒教の中にも良い所を見付けて活かそうとしたが、儒教側では恩知らずにもその太子をボロクソに言うスタンスなのだ。やっぱり私、儒教とは仲良くしません。
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2010/11/23 | 投稿者: 鹿苑院

最近はどこに目を向けてもTwitter、Twitterである。もうブログという言葉はあまり聞かれなくなった。

…ねえ、ブログしかやってない奴ってもう古いの? Twitterとウェイターってどう違うの? Twitterをクリーニングに出すならドライじゃなきゃダメ? Twitterをおかずにするならごはんとパンとどっちが合うの? 東尾理子は本当に幸せになれるの? …わからないことだらけ、疑問だらけである。

実は一度だけTwitterに手を出しかけたことがあるが、なんか面倒くさくなって辞めた。140文字しか書けないってのもなんだかなぁ。だいたい今のブログでさえ過疎ってるのに、Twitterまでフォローなかったりしたら空しさ倍増だよなぁ。でもやった方がいろいろと楽しいかなあ? 今のところ気が進まないなあ。
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2010/11/23 | 投稿者: 鹿苑院



ハワイ一泊って商品としてはケチな気が…。着いてすぐ帰国じゃないか。
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2010/11/21 | 投稿者: 鹿苑院

太子信仰を語る時、どの本も親鸞聖人の太子信仰を例に出す。太子信仰の代表選手が親鸞聖人であり、ゆえに浄土真宗は聖徳太子を大事にするのだ。

聖徳太子が阿弥陀信仰を持って念仏していたかどうか私は知らない。ただしその時代から阿弥陀如来という仏は日本に紹介されていたので、太子が阿弥陀念仏していても全然おかしくはないし、していただろうなとは思っている。

直接に太子と阿弥陀信仰が結び付けられたのは、太子の建立した四天王寺によってだろう。いつしか四天王寺は、西にあるとされる阿弥陀浄土の東の門という位置付けがされるようになり、阿弥陀信仰のメッカになった。四天王寺で夕日(西だから)を見詰めながら阿弥陀仏に想いを馳せる「日想観」という行が盛んだったらしい。時宗の開祖・一遍上人も最初に人々に念仏を奨めたのが四天王寺だったと伝えられる。私が四天王寺に参拝した時も、看板に「南無阿弥陀仏」と大書されていたので、やはりここは阿弥陀信仰の寺だと嬉しくなった。

後に、四天王寺からほど近い所に浄土真宗の本山・石山本願寺が建てられる。土を掘り返してみたところかつて四天王寺に使われていた瓦が出てきたので、太子の恵みだと感謝しながら石山本願寺に流用したという話もある。聖徳太子は必ずしも専修念仏の人ではなかったろうが、他の宗旨にとってもそうであるように念仏宗にとっても偉大な祖となった。
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2010/11/18 | 投稿者: 鹿苑院

法相宗という宗派はあまり聞きなれないかもしれない。「うちは法相宗の檀家」という家など私も聞いたことがない(おそらく存在しないと思う)。檀家を持ち盛んな勢いなのは真言宗、天台宗以降の宗派であり、法相宗はそれ以前の奈良の仏教、いわゆる南都六宗のひとつである。

今は法相宗の有名寺院といえば興福寺と薬師寺だが、聖徳太子の代名詞ともいえる法隆寺も、かつては法相宗所属だった。しかし今は離脱独立し、聖徳宗を名乗る。それには以下のような経緯があった。

仏教宗派にはいろいろな分類の仕方があるが、その中で「一乗か、三乗か」という分類方法がある。一乗とは、「人間は誰でも仏性(仏になりうる可能性)を持っているから正しく修行すれば誰でも悟りを開ける」という考え方で、三乗は「世の中にはどうしようもないやつもいるから、そういうやつは仏性を持っていないはず」という考え方である。

法相宗などの南都六宗は三乗であり、一乗を主張して南都六宗に対決姿勢を示したのが天台宗の最澄である。最澄と法相宗の徳一との文通による論争を「三一権實諍論」と呼ぶ。ちなみに、最初の段落で「法相宗はそれ(真言、天台)以前の奈良の仏教」と書いたように、日本では一乗が盛んになった方が後なので、一乗の方が新しい思想のように思えるが、本当は三乗の方が新しい。だから最澄が一乗を主張してきた時は、おそらく徳一ら南都六宗の僧侶たちは「何を古いことを今さら…」と思ったことだろう。最澄と徳一の論争がどちらの勝利に終わったかは不明だが、その後、現在に至るまで仏教の主流は一乗になっている。
(一目で解る三一権實諍論)

さて、一乗を最も高らかに謳っている経典といえば、最澄が一番大事にした法華経である。2つ前の記事に書いたように、聖徳太子も法華経を重視していたことが明白なので、したがって太子の思想も一乗と考えられる。だから法隆寺が法相宗では都合が悪かったわけだ。こうして一乗思想を奉ずる聖徳宗本山・法隆寺が誕生した。
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2010/11/17 | 投稿者: 鹿苑院

聖徳太子と禅宗の関わりといえば、やはり片岡山飢人伝説が挙げられる。どういう伝説かというと、

「聖徳太子こと厩戸皇子が片岡山を通りかかったところ、飢えて瀕死の異人に出会った。太子はその異人に当座の寒さと飢えをしのぐため、食物と自分の衣服とを与えた。翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせたところ、すでに息絶えていたので、丁重に葬った。それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、死体は消えており、衣服だけがきちんとたたまれて、棺の上に置かれていた。」(wikipediaよりコピペ)

…というもの。なんでこれが禅宗との関わりになるのかというと、瀕死の異人の正体が禅宗の始祖・達磨大師(いわゆるだるまさんのモデル)の化身であったという信仰が後に生まれたからである。この伝説の故地には今、達磨寺という臨済宗の寺院が建つ。

実を言うと、私の知識ではこれ以外に太子と禅宗の関わりを挙げることができない。御存知の方がいたら御教授いただきたい。
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