2010/10/17 | 投稿者: 鹿苑院

慧可が師・達磨に悩みを相談したことがある。
「私の心はいつも不安に満ち、安心するということがないのです。どうにかならないものでしょうか?」
「よかろう。お前の心とやらを持ってきなさい。」
しばらくして再び達磨の前にやってきた慧可、
「探しましたがどこにも心を見つけることはできませんでした。」
達磨は答えた。
「よろしい。これでお前を安心させることができた。」
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2010/10/17 | 投稿者: 鹿苑院

昔、インドの王様が仏教僧を王宮に招き、こう質問した。
「肉体と霊魂は一体か、それとも別々か?」
僧は逆に質問した。
「王宮の庭になっているマンゴーの実は甘いでしょうか、それとも苦いでしょうか?」
「この王宮にはマンゴーの木などありません。ですからその質問は無意味です。」
「霊魂などというものは存在しないのです。ですから王様の質問も無意味なのです。」
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2010/10/15 | 投稿者: 鹿苑院

天皇家が二派に分裂していたことがある。持明院統(以後北朝)と大覚寺統(以後南朝)であり、一般に南朝を正統と見なすのが日本史上の『常識』である。

分裂のいきさつはこうだ。西暦1259年に後嵯峨上皇が、息子である後深草天皇に退位を迫った。後深草の弟にあたる恒仁親王の方が可愛いから、帝位につかせたいというわけだ。恒仁親王が即位して亀山天皇となり、17歳にして帝位を追われた後深草は忿懣やる方なく、鎌倉幕府に訴え出る。幕府の裁定により、後深草の系統(北朝)と亀山の系統(南朝)が交互に帝位につくことに決した。なお、さらりと書いているが天皇の後嗣問題に武家が裁定を下しているというのは歴史上かなり画期的なことである。

南朝から後醍醐天皇が出て鎌倉幕府を滅ぼすと、当然幕府の決定など反古にして、以後は南朝の系統のみが帝位につくことにしてしまう。しかし様々な経緯から後醍醐と対立するに至った足利尊氏が北朝の光厳上皇を擁立したため、ここに北朝が復活。長い対立の末、北朝方の足利義満の手により北朝の実質的勝利という形で天皇家は再び統一された。この時、また帝位は両統が交互につくという約束だったがこれは反古にされ、現在までずっと北朝が帝位を継承し続けている。

こういう歴史を考えると、南朝正統という常識があまり正しくないように思える。そもそも南朝は後嵯峨の気まぐれから生まれたのであり、そんな理由で科なく帝位を追われた後深草こそ同情されるべきである。

そもそも南朝正統論はどこから出てきたのかといえば、徳川光圀(水戸黄門)の水戸学が始まりである。尊王家と呼ばれる人々は水戸学を思想の根幹にしたので、尊王家の間では南朝正統論が当たり前になってしまったが、徳川光圀が南朝を正統とした理由は単に三種の神器を持っていたからというに過ぎない。しかも徳川光圀の時代には南朝などとっくの昔に絶えているので、世の尊王家は口に南朝正統を唱えながら北朝の天皇を崇めるという矛盾を抱えている。

三種の神器云々という所持品の問題ではなく、理非曲直・筋目を考えていけば北朝こそが正統なのではないかと私は思う。
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2010/10/13 | 投稿者: 鹿苑院

私は紛れもなく愛国者である。ただ、国家・政府に忠誠心があるわけではなく、日本の国土の美しさ、文化の繊細さを愛する。無論、それゆえにエスノセントリズムに陥る者を私は同志と認めない。日本の国土や文化の素晴らしさに気が付いた時、他国のそれの素晴らしさにも気が付かなければならない。
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2010/10/11 | 投稿者: 鹿苑院

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前から気になってたので行ってきた。今年中に行かなきゃいけないという強迫観念に近い。なにしろ今年を逃したら次は「平安京遷都1300年祭」を84年待たなければいけないのだから。オレ110歳である。なんとか生きてる自信はあるけど。
写真は自分ではめんどくさくて撮らなかったので、ウィキから拝借した。

会場はとにかく広い。野球なら10試合くらい同時にやれるだろう。そのだだっ広い敷地に、天皇の御座所である大極殿が聳え立っている。極彩色で、天皇の玉座が復元されており、それなりに見応えのあるものだった。

その他には、
その他には、
その他には…

え〜と……

わはははは。

参りました。

正直、大極殿以外たいして観るものないんだよね。期待はずれでございました(個人の感想です)。その後に行った東大寺大仏と鹿遊びの方が楽しい思い出ができた気がする。
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2010/10/10 | 投稿者: 鹿苑院

孝明天皇の次代は明治天皇──これは有名でありどんな教科書にも載っている。しかし、同時期にもう一人の天皇がいたことはあまり知られていない。その名は東武天皇。

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東武天皇の前身は輪王寺宮である。輪王寺宮は江戸幕府創設早々に始まった制度で、歴代天皇から親王を一人いただいてその役職(僧侶)に就ける。実態は幕府が天皇家から取った人質であり、もし反幕勢力が京を占領して天皇を推戴した場合、一方的に幕府が朝敵とされないための対抗措置としていつでももう一人の天皇として推戴できる──そういう存在だった。なお、輪王寺(日光)の住職は名誉職で、実際には江戸・上野の寛永寺に歴代住んでいた。

本当に薩長が京を占領し、明治天皇を推戴した時、予定通りにこの輪王寺宮は旧幕府勢力によって推戴され、東武天皇となる。「東の武家政権の天皇」、いかにも彼に相応しい名である。奥羽越列藩同盟の盟主となるが、戊辰戦争の敗北により降伏。

明治になってからは許されて皇族に戻り、名を北白川宮能久親王と改める。陸軍に入り、台湾征討近衛師団長として現地に赴くも、同地で病没。享年48歳。

天皇家に生まれ、輪王寺宮として関東で暮らし、天皇に即位するも朝敵となり、最後は外国で病没。なんとも数奇な生涯だが、東国武家政権最後の盟主として、その名を埋もれさせたくないと思う。
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2010/10/8 | 投稿者: 鹿苑院



おっさん最強伝説(戦闘力5)。
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2010/10/8 | 投稿者: 鹿苑院

仏教上の疑問に悩む若き日の親鸞聖人が、聖徳太子ゆかりの六角堂に籠り、その時に夢枕に立った聖徳太子(あるいは救世観音)のお告げを受けて法然上人への入門・浄土教への転入を果たしたことはよく知られている。そのため浄土真宗では聖徳太子を恩人とし、その像を大切にする。
ところで仏光寺蔵の『親鸞伝絵』に描かれるその時の救世観音の姿は白衣の清僧の姿になっているが、その後の親鸞聖人が自らも多く彫り、今も真宗寺院で祀られる太子の姿は例外なく太子が16歳の時の姿である。鹿苑精舎に在す太子もこの姿だ。

実は浄土真宗で16歳の太子の姿を大切にするのは少し不思議がある。何故なら、実はこのミズラという髪型で柄香炉を捧げ持つ姿は、父・用明天皇が病に倒れた時にその回復を願う祈祷をしている姿だからだ。病気回復のための祈祷とは、およそ浄土真宗にそぐわないはずである。太子の像はなにも16歳像だけではない。合掌した可愛らしい2歳像もあるし、旧1万円札で有名な成人した摂政像もある。なぜその中から最も浄土真宗に合わない筈の16歳像を選んで祀るのか。

私はその理由は単純なところにあると思う。すなわち、親鸞聖人の夢に現れて浄土教への転入を勧めたその時の姿が16歳像の姿をとっていたのではなかろうか。親鸞聖人作と伝わる数々の太子像がことごとく16歳像であるのはそのためと考えるのが自然だし、それ以外に16歳像を選ぶ理由も見出せない。つまり、真宗で祀る聖徳太子像は厳密には用明天皇病気平癒のための祈祷をしている姿ではなく、親鸞聖人の夢に現れた、浄土真宗の萌芽の日のその姿なのだ。
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2010/10/7 | 投稿者: 鹿苑院

今日は院長が小学校の検診のため医院には不在。非常勤のベテラン医も曜日を間違えていて午後からしか来れないという騒ぎになった。…ということは、午前中のドクターは私と研修医1名だけ。なんの心の準備もないままいきなり半日院長に就任である。

波乱の予感漂う午前の診療は…なんの問題も起こらずソツなくこなした。去年の今頃はセンスない才能ない歯医者に向いてない…と散々言われてた俺もいつの間にかこんなに実力つけてたんだなあ…。誰もねぎらってはくれなかったから、このブログの拍手アイコンを自分で3回ほど押しとこッと。
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2010/10/4 | 投稿者: 鹿苑院

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富士にはバキシムがよく似合う。
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