2010/4/13 | 投稿者: 鹿苑院

人は山内容堂を指して「酔えば勤王、醒めれば佐幕」と評する。しかしどうだろう、勤王という言葉が倒幕と同義語だとすれば、容堂には勤王のきの字もなかったと思う。およそ三百諸侯であれほど徳川家に忠誠心を持ち続けたのは他に会津松平容保、桑名松平定敬くらいではないか。

容堂の言動を見れば徹頭徹尾佐幕的である。最初は吉田東洋を抜擢して開国論を支持したし、一時的には武市瑞山を採用したものの(おそらくこれが「酔えば勤王」と言われる由縁)内心では武市を憎み続け、八月十八日の政変が起きるや否やすぐに武市を弾圧し処刑している。自ら参加した四侯会議in京都も幕府に不利な会議とみるや持病の歯痛(歯周病だったらしい)を訴えて土佐に帰っている。大政奉還建白も徳川家の面子が立つ案だから飛び付いたのだし、戊辰戦争の時も土佐藩兵の上洛までは許したが対徳川戦争への参加は厳禁している(現場指揮官の板垣退助がその命令を無視して結局戦闘に参加してしまったが)。小御所会議でも徳川家の功績を主張し徳川慶喜の辞官納地に断固反対してくれた。

以上のことから、どう見ても佐幕派である。弁舌に優れる上に政治的駆け引きもなかなか。山内容堂、実に頼もしい徳川の味方だった。
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