2010/1/5 | 投稿者: 鹿野苑

戦国ブームの中にあっても徳川家康の人気はいまいちのようだ。やっぱり豊臣家への仕打ちが狡猾すぎて、ずる賢い人物というイメージが強い上に、敵将真田幸村の人気が高すぎる。しかし、徳川家臣となると話は別で、本多忠勝や井伊直政などは人気があるようだ。

私はというと、徳川家臣では鳥居元忠が好きだ。地味だが、家臣団の中で家康の「家臣」ではなく「親友」と表現されたのは本多正信とこの元忠くらいのものである。それもそのはず、家康幼少の頃、駿河今川家に人質に出された時にも供をし、いつもそば近くに従っていた。互いの少年時代、家康のペットのモズ(鳥)を元忠が誤って逃がしてしまい、怒った家康が元忠を縁側から蹴り落としたという話を聞いて、鳥居忠吉(元忠の父)が「それでこそ大将の御振る舞い!」と喜んだ話は有名である。

元忠はいくつもの合戦に参加して手柄を立てたが、感状を一切受け取らなかった。感状というのはその士がどんな手柄を立てたかの証明書で、徳川家を辞めて別の主君に仕える時の履歴書代わりになるもので、それを貰うことは武士の名誉とされていたのだが、元忠は「家康以外の主君に仕える気はないから」という理由で受け取らなかった。
…といえば忠義一筋の堅物に聞こえるが、一方では武田滅亡後、その遺臣の馬場信房の娘が美人だと聞きつけた家康が元忠にその探索を命じたところ、見付けはしたが報告せず、ちゃっかり自分のものにしてしまったという一面も持つ。それがばれた時、家康は「あいつめ」と明るく笑って許したとか。

元忠の最期は関ヶ原の戦の前哨戦たる伏見城籠城戦。上杉家家老・直江兼続の陽動作戦に乗ったふりをして上杉討伐に向かう徳川軍の、上方における留守として伏見城に残った。家康にしてみれば、自分の留守に大坂城で石田三成が兵を挙げることは見え見えであり、それゆえに三成の方から手を出したという形を作るために徳川方が守る伏見城を攻撃させる必要があったわけだ。主力は上杉討伐軍に連れていくので伏見城に残せる兵はわずか。はっきり言って確実に死ぬ仕事である。誰も引き受けなかったこの仕事を老いた元忠は引き受けた。さしもの家康も涙を流して何も言えなかったそうだ。

元忠率いる伏見城兵は1800。対する西軍4万。降伏勧告はあったが当然拒否し、徹底抗戦をした。西軍の思惑ではあっという間に落とせるはずだったが、なんと13日間も持ち堪え、最後は城内の甲賀忍者の裏切り(家族を人質に捕られてやむなく裏切った)によって落城。元忠は敵将雑賀孫市に「我が首を取って手柄とせよ」と言い残し、潔く討たれる。

元忠が西軍を13日も抑えたこと、この攻城戦の不手際によって西軍内に不協和音が生じたことが関ヶ原での東軍勝利の伏線になる。鳥居元忠、まさに徳川の人柱となった。
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