2009/1/10 | 投稿者: 釈鹿苑

今まで調べたり考えた中でわかった最も重大なことは、法華経始め各宗派によって悟りの境地に達した聖道門の諸賢はみな一様に──良寛さんも一休さんも、天台大師智ギさえも──阿弥陀信仰に近い心境になっているということ。

そこで、こういうことではないかという結論に達した。
たとえば仏教を美味しい料理に例えてみよう。その料理を作るのに料理本が要る。いろいろあるが法華経という本に書かれたレシピが一番詳しくてわかりやすく、聖徳太子もこの本に書かれたレシピに従って料理を作り、満足した。そして「この本はおすすめだよ」と言った。ただし、その料理を作るには時間と金と料理センスが要る。その条件を乗り越えて作れる人は少数派だから、作れない人は食べられないことになってしまうし、作る素質がある人ももしかしたら正しい料理とは違うものを作ってそこで満足してしまう可能性もある。
しかし、阿弥陀飯店という店に行けば格安でこの料理を食べることができる。過去にこの料理を正しく作った経験のある智ギや一休や良寛もこの店の料理を食べて、「まさにこの味だよ!」と太鼓判を押している。自分で作った達成感は無いかもしれないが、難しい条件を満たせなくてもちゃんと正しい味を味わえるわけだ。

これにあてはめると、聖徳太子の親鸞聖人への夢告とはこういうことになる。
「太子様、比叡山の厨房でいろんな料理本を見ながら挑戦してみたんですがどうも上手く作れないんです。どうしたもんでしょう?」
「じゃ阿弥陀飯店へ行きなさい。あそこなら法然さんという優秀なコックがいて、安く食わせてくれるから。」
〜〜〜〜〜しばらく後〜〜〜〜〜
「美味い! 良い店教えてもらったなー。聖徳太子さんに感謝! この店で料理修行したいな!」

これで親鸞聖人の聖徳太子への想いは説明がつく。尊敬というより感謝という方が近いかもしれない。
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