2009/1/13 | 投稿者: 鹿野苑

どこの本屋にでも売っているがまさに禁断の書と言うに相応しい扱いを受けている奇妙な本がある。アドルフ・ヒトラー著「わが闘争」。
アメリカなどでは図書館でこの本を借りると名前がブラックリストに登録されて、何か事件が起きると真っ先に疑われるようになってしまうらしい(だったら図書館に置かなきゃいいのに)。ドイツでは法律で出版が規制されている。そんな本である。

劇団ひとりがCMしている「まんがで読破」シリーズだが、今日、買ってしまった。誤解されると困るので、私はネオナチでも軍国主義者でもないとは言っておかねばなるまいが、歴史マニアとして一度は読んでおきたかった。無論、批判的かつ常識的なスタンスで読んでいく。
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2009/1/11 | 投稿者: 鹿野苑

ソフトバンクで携帯機種変したらコシヒカリ12kg(!)貰ったので、美味しく食べながらふと思った。コシヒカリやササニシキといった優良品種が開発されていない時代、たとえば織田信長や豊臣秀吉が食べていた米はどんな味がしたのだろう? 今普通に買える米はどんな安物でも最低限真っ白で粘り気があってもっちりとしている。品種改良の過程で、美味しくないという理由で食用にされなかった品種もあるが、好奇心や知識欲からそういう美味しくない米を食べてみたいと思ってもそっちの方が難しい。赤米というのは時々あるが、あれは古代すぎて信長や秀吉の食べていたものとはまた違うだろう。戦国時代の米…興味あるなぁ。
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2009/1/10 | 投稿者: 釈鹿苑

今まで調べたり考えた中でわかった最も重大なことは、法華経始め各宗派によって悟りの境地に達した聖道門の諸賢はみな一様に──良寛さんも一休さんも、天台大師智ギさえも──阿弥陀信仰に近い心境になっているということ。

そこで、こういうことではないかという結論に達した。
たとえば仏教を美味しい料理に例えてみよう。その料理を作るのに料理本が要る。いろいろあるが法華経という本に書かれたレシピが一番詳しくてわかりやすく、聖徳太子もこの本に書かれたレシピに従って料理を作り、満足した。そして「この本はおすすめだよ」と言った。ただし、その料理を作るには時間と金と料理センスが要る。その条件を乗り越えて作れる人は少数派だから、作れない人は食べられないことになってしまうし、作る素質がある人ももしかしたら正しい料理とは違うものを作ってそこで満足してしまう可能性もある。
しかし、阿弥陀飯店という店に行けば格安でこの料理を食べることができる。過去にこの料理を正しく作った経験のある智ギや一休や良寛もこの店の料理を食べて、「まさにこの味だよ!」と太鼓判を押している。自分で作った達成感は無いかもしれないが、難しい条件を満たせなくてもちゃんと正しい味を味わえるわけだ。

これにあてはめると、聖徳太子の親鸞聖人への夢告とはこういうことになる。
「太子様、比叡山の厨房でいろんな料理本を見ながら挑戦してみたんですがどうも上手く作れないんです。どうしたもんでしょう?」
「じゃ阿弥陀飯店へ行きなさい。あそこなら法然さんという優秀なコックがいて、安く食わせてくれるから。」
〜〜〜〜〜しばらく後〜〜〜〜〜
「美味い! 良い店教えてもらったなー。聖徳太子さんに感謝! この店で料理修行したいな!」

これで親鸞聖人の聖徳太子への想いは説明がつく。尊敬というより感謝という方が近いかもしれない。
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2009/1/9 | 投稿者: 釈鹿苑

山崎祥琳先生の掲示板に私と同じ疑問を抱えた人がいたので、私も改めていろいろ考えた。浄土真宗門徒の永遠の課題かもしれない。なぜ法華経をほとんど無視しているのかということは。

お経の王様、経王とも呼ばれるのが法華経である。以前nicojuさんにおすすめ頂いて読んだ「親鸞の仏教と宗教弾圧」という本には浄土真宗の根本経典である無量寿経が法華経に比べて優れている点が論じられており、そこは納得したが、今回の問題は聖徳太子があまり無量寿経を尊んだ形跡がないこと。そして太子は三経義疏という著作で「法華経サイコー」と主張していること。さらに、法華経をあまり重視せずに無量寿経サイコーを叫んだ親鸞聖人が聖徳太子を「父のごとく」と呼んで熱烈に尊敬していたという事実。つまり、親鸞聖人は聖徳太子を尊敬していながらも太子の主張とは違った論を展開しているというのが謎になるわけだ。親鸞聖人は若い頃、真の仏教とはなにかということについて悩んでいたところ、聖徳太子が夢に現れて残してくれたお告げに従って法然上人に弟子入りしたら最高に素晴らしい無量寿経の教えに出会えたというので太子を尊敬しているのだが、これだけではちょっと根拠として弱い気がする。

浄土真宗が正統な仏教であると証明するには、釈迦→龍樹→善導→法然→親鸞のリレーが正しく行われたものであることがわかればいい。ここでの詳説は省くが、このリレーに問題はなさそうである。寂しいのはこの系譜に聖徳太子が登場しないこと。太子が熱心な阿弥陀信者であった証拠があればいいのだが…。ただし、法華経にも阿弥陀如来の念仏の教えは載っていて、そこが救いといえば救いではある。

法華経は天台宗や日蓮宗の根本経典だが、禅宗でも読む。禅宗というのは釈迦以来の元祖仏教の形に近い、もっとも正統な宗派のひとつだと思うが(何十年も寺で厳しい修行をしないと禅の悟りは開けないので、経済的・時間的余裕と宗教的才能が必要になるのが弱点)、その禅宗サイドからは浄土教に頼もしい援護射撃が寄せられている。一休さんと良寛さんが悟りを開いた後になって阿弥陀如来と念仏に非常に好意的な発言を繰り返しており、特に一休さんなどは本気で浄土真宗に改宗しようとしたほど。おそらくは太子も異義が無いであろう禅宗で、法華経を読んだり座禅をしたりして悟りに達した者が、浄土の教えを聞いたらまったく自分の悟りと同じであったという事実。これは非常に心強い事実である。しかも、昨日祥琳先生から教わったのだが天台宗の開祖・智ギ(ギの漢字が出ない…)も晩年は阿弥陀如来に帰依して念仏していたのだとか。もしかしたら経王・法華経さえも超越した経帝ともいうべきものが無量寿経なのかもしれない(法華経がウルトラの父で無量寿経がウルトラマンキングのようなものか?)。
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2009/1/8 | 投稿者: 鹿野苑

知性的とされている新聞や雑誌さえ偏向報道が目立つ世の中だから、スポーツ新聞の記事なんてどんな意図的な省略・編集がされているかわかったもんじゃないということはまず意識しておかねばなるまいが、ナベツネさんの発言には吹き出した。

「巨人が日本一になれなかったから不景気になっている」だとさ。

まだそんなこと言ってるんですか!? 世界中を巻き込む恐慌を相手に、日本の一球団が優勝したところでそれがなんだって言うんです? 世界一の発行部数を誇る新聞の主筆ともあろう方が随分イタいことをおっしゃるではありませんか。マスコミの親玉がそんなんだから世の中の雑誌や新聞やニュースもおかしくなっちゃうんですよ。
確かに昔は巨人が優勝したら景気が良くなるという図式があったらしいけど、巨人の人気も低迷してるからもうあまり景気回復作用は期待できない。そして巨人の人気が低迷したのはあなたのえげつないごり押しや傍若無人な発言にファンが引いちゃったからでしょうが。
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2009/1/6 | 投稿者: 鹿野苑

「家がない」と言う人に千円でいいからくださいとせがまれたので、脳内軍師と会議すること2秒で出た結論に従い、250円あげた。名古屋駅には数え切れないほど来たが、こういう体験は初めてだ。不況が実感として感じられた。
前に書いたように政治のせいばかりにするのは反対というスタンスは変わらないんだけど、そんな書生論自体、しゃらくさいのかもしれないと思った。いやはや、私もまだ未熟だな。
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2009/1/6 | 投稿者: 鹿野苑

ニュースで、デモの人が「♪総理にゃリストラも 失業もなんにもない」とゲゲゲの鬼太郎の替え歌を歌っている映像が流れていた。ちょっと待ってくれ、と思った。世界恐慌はアメリカで起きた事件であって、日本の総理大臣には直接責任はないのでは? 私は自民党は嫌いだし、麻生政権が明日倒れても何の無念もないけれど、「とにかく悪いことは総理大臣のせいにしとけばいいや」っていう民衆の態度にも、ひどく安直なものを感じる(今回の恐慌に限らずね)。こんな画像を平気で流すマスコミもマスコミだ…と言いたいが今回はそれは控えておこう。私がマスコミ批判を始めると長くなるし、まだまだこれから何度でもマスコミ批判をする機会はあるだろうから。

もしどうしても日本人の中で責任者を一人挙げろと言われたら、それは麻生総理ではなく、小泉元総理と言うべきだろう。「小さな政府」はまずかった。なんとなく語感から、政府の独裁権力を抑えて民衆に力を与えるようなイメージを抱きがちで、それゆえに支持を集めたのだが、実態は公的支援を打ち切る貧乏人切り捨て政策のこと。今の惨状はその体制の結果である。真に民衆のためを思えば「大きな政府」こそ必要だった。
無論、これも小泉元総理のみに責任があるとは言わない。「小さな政府」という政治学用語について深く勉強せず、語感の良さに騙されて支持した国民にも責任がある(ちなみに私は郵政民営化にも反対だったが、それゆえに当時はよく変人扱いされた)。

結論。
悪いことはすべて生贄の羊のせいにするのは下品です!
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2009/1/4 | 投稿者: 釈鹿苑

久しぶりに会った兄貴(厳密にはいとこ)が右手に腕輪数珠をしていたので、数珠は左手に持つのが作法だと教えたところから期せずして翌日メールにて数珠トークになって楽しかった。

えー、そうなんです。数珠は左手に持つのが作法です。
理由はいろいろあるらしいが、いくつか読んだ中で一番納得できて唯一記憶に残ったのがこれ。
インドでは右手が清浄な手(すなわち仏を表す)で左手が不浄な手(すなわち人間・自分を表す)のため、右手と左手を一体化することで仏様に付いていく意思を示す合掌の時に、そのままでは釣り合いが取れないから左手に仏智の象徴である数珠を持つことで釣り合いを取るという理屈。非常にシンプルでわかりやすい説だ。

ちなみに、左手を不浄とする考え方はインドほど極端ではないにしても欧米にもあるようだ。小便小僧は左手でおちんちんを持っているが、これは右手は握手する時のために清潔にしておくという欧米のマナーのためらしい。最初はインドの思想がヨーロッパに伝わった結果かと思ったが、よく考えると大多数の人にとっての利き手である右手を温存しておくのは思想には関係ない当たり前のことかもしれない。私だって汚れ仕事をする時はなんとなく左手を優先して使っちゃうもんな(スマン、左手)。
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2009/1/3 | 投稿者: 鹿野苑

珍しいことに今日は我が家で夫婦喧嘩があった(だいたいいつもは私か妹に八つ当たりの矛先が向くんだが、巻き込まれなくて良かった)。

どうも言い争いの内容から類推すると、平常時でもやや怒ったような口調で話す癖がある母に対して父がキレたらしい(なんで今更?)。だとするとどうも母に非がありそうだ。ただ、それを言うなら父にだって自分の考え方が唯一正しいように言い、それと少しでも喰い違う人を執拗にたわけ呼ばわりする癖があるし(そしてその考え方が標準偏差から大きく離れているから困る)、私だって人を見下してるだの偉そうだのと言われたことが数え切れない。結局は「なくて七癖」。悪気がないのに人に不快感を与える癖を誰でも一つは持っているもんだと思う。持って生まれた癖ってのはしょうがないよね。私だって治そうともう何年も努力してるけど、一向に寄せられるご指摘が後を絶たないんだから。

公平な判定者でありたいと思うけど、父の得意文句の「ここは俺の家や」という気色悪い言葉を聞くと、どうしても味方する気が失せてしまう(私が地元に帰りたくないのはこの言葉を聞かずにすむ自分の家を持ちたいから)。
「ここは俺の家や」という言葉は本来は「この家に住む者の幸せを守る義務が俺にはある」という意味で使うべきであって、「この家にいる限り俺は独裁者で、家族をどんなに虐げてもいい」という意味ではなかろう。そこのところがこの「昭和生まれの明治の男」には理解しがたいんだと思うが。

あと、だいたいこの種の発言が出る時の父は酒気帯びである。昔、大河ドラマの「毛利元就」で、父・弘元が酒を飲んでは暴れるので元就少年が城じゅうの酒樽を叩き割るシーンがあった。私はなんて素晴らしいシーンだと感動したもんだ。父も兄も酒害で早死にしているので元就は酒を飲まない人だったらしい。私が酒を好まないのも、多分父に似たくないからだろう。
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2009/1/1 | 投稿者: 鹿野苑

あけましておめでとうございます。年明けの瞬間は問題集と睨めっこしてました。

12時回ってすぐに近くの神社と真言宗のお寺に初詣に行くという実に念仏宗徒らしくもない行いをし、しかも真言宗寺院の福引きで餅焼き用の金網を当てました。もしかしたら今年は亜美という名前の彼女が出来るというお告げなのかもしれません。

年明けの
観音菩薩の
膝元で
あみの手に入る
今日の喜び

さて、徹夜勉強でもするか…。
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