2008/6/3 | 投稿者: 釈鹿苑

「門徒物知らず」という言葉がある。元々は悪口である。門徒とは元来は仏教徒全般を指すが、日本では普通は浄土真宗の信徒を指す。悪口ではあるが、その「物知らず」ぶりを誇りにしている真宗門徒も多い。私もその一人だが。

ではなぜ「物知らず」と呼ばれるに至ったか。理由は、他の宗旨では当たり前のように必ずやっていることを浄土真宗ではやらないからだ。ちょっと思いつくだけ並べてみよう。
@位牌を飾らない
Aお盆に行事をしない(地方によって例外はあるかも)
B葬式の時の清め塩などを使わない

他にも御守を持たない、占いや祈祷をしない、大安・仏滅などを気にしない等いろいろあるが、特にこの3ヵ条を選んだのは仏教への世間の誤解をよく反映していると思うからだ。

声を大にして言いたい。
仏教は先祖や死者を供養するための宗教ではありません。自分がどう生きるかを考えるものです。
その証拠に釈迦には墓が無いし、釈迦自身、熱心に供養をすれば死者が浮かばれるというような思想に対して「石が水に沈んだ後でどんなに祈ったところで浮かんでくるはずがないではないか」と言っている。

ではなぜ仏教が先祖供養の宗教に変質してしまったか。これはインドで生まれた仏教が日本に伝わる過程で中国の儒教(先祖崇拝色が強い)の要素と混じり合ってしまったためである。位牌というのもここで取り入れられた。つまり、位牌は本来の仏教と関係がない。
葬式の清め塩はそれとはちょっと違って、死を穢れと見なす日本神道の影響による。本来の仏教では死を穢れとは見なさず、受け入れるのみ。そもそも遺体を穢れたものと見なすことは死者や遺族に対して失礼ではないか。

チベット人は日本の家で仏壇の近くにお爺ちゃんやお婆ちゃんの写真が飾ってあるのを見ると理解ができないそうである。仏壇に向かって「お爺ちゃん…」とか話し掛けたりするのも本来の仏教からみると的外れ(ただ、そこまで言うのは野暮で酷かもしれない)。

親鸞聖人は「父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。」とはっきり言った。父母の冥福を祈るために念仏を唱えたことは一回もないのである。仏教がそういうものではないことを聖人はよく知っていたのだ。
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