『絶望ノート』
歌野晶午
人はよく言う。
「幸福は連鎖する」と。
しかしまたこうも言う。
「不幸は連鎖する」と。
どちらも正しい。
どちらも真実であろう。
何故ならば、それは偶然ではなく必然の産物だから。
1つの選択が結果と新たな選択を生み出す。
その結果が良きモノであろうか、悪しきモノであろうか、想像の範疇か予想外であろうかには関係なく、選択と結果の繰り返しは終わることなく紡がれていく。
そこから逃れる術はない。
まるで蜘蛛の巣でアミダくじをしているように繰り返す。
糸の先に希望があるのだと信じて。
そこにしか逃げ場がないから、そうする以外に感情をぶつける術がないから。
少年は日記を記す。
家族には言えないこと、ずっといじめられていること、自分の望み、不満、その何もかもを。
その日記の名前は絶望ノート。
願いを叶えてくれる神の、悪魔のノート。
登場人物の視点が結末に向かうにつれ1つに重なっていき、また離れていく。
悪く言えば陰気で、良く言えば人の暗部の深さ、罪深さを見事に描いている作品。
近ければ近いほど、何も言わなくても分かることほど危ういものはない。
どこまでいっても分かり合えない。
それが人間、それが関係。
まさかそうくるとは。
やられた。
そう感じさせてくれるのがミステリーの醍醐味かもしれん。
でも、それだけじゃない。
それが全てではない。
人が為すことだからこそ危うく、奇異。
そこに人が描かれているから面白く、興味深いのだと思わせてくれる。
そんな作家さんです。
『秋の牢獄』
恒川光太郎
特殊とか、普通とか関係ない。
どんなに在り来たりな人生、日常、人間であろうとも同じ。
誰しもが何かに枷をはめられ、誰かと繋がりながらそれぞれの人生を過ごしている。
それが特別な理由なのかどうなのかはその人にしか分からない。
共感や同情などは出来ない、絶対に。
だから、己の都合や満足のために連れ出してはいけない。
それぞれの選択、理由があって、その人はそこにいるのだから。
閉じこもっているのだから。
それは牢獄。
終わりの時が来るまで出たり入ったりを繰り返す、逃れることの出来ない牢獄。
『雷の季節の終わりに』
恒川光太郎
自分たちの知らない、感知出来ない、理解出来ないことが起こると、人は神や霊や悪魔の仕業だと言う。
それがたとえ同じ人の為したことであろうとも、動機や原因、その残虐性や奇異さが理解出来なければ、恐れ、はじかれ、崇められる。
悪魔、あるいは神として。
分からないことが何よりも怖いから。
だから、人は恐れる。
神を、霊を、悪魔を。
そんなことをするとは思いたくないから、同じだとは信じたくないから。
だから人は作る。
自分たちの姿に似せた神を、霊を、悪魔を。
得たいの知れない体験、場所、能力に捕らわれた人を描いた短編集と長編。
著者の描いた世界が静かに、美しく、陰を引きながら流れていく。
その陰はいつもそこにあって、でもあまり気づく人がいない、いや皆見るのが嫌で見ないようにしているもの。
そりゃ誰だって暗いことばかり、醜いものは見たくない。
でも、明るくて綺麗なものばかり見ては生きていけない。
という話ではありません。
ちょっと不思議で、少しホラーな3つのお話です。
ほろ苦くて、暗いけど光がないわけじゃない少し長めのお話です。
『バイ貝』
町田康
現実と虚実。
嘘と本当。
どれも形のないものだから、人それぞれに違うものだから、移ろうものだからこそ信じ、騙される。
そんなものにすがるなんて無意味だし、踊らされるのも阿呆くさい。
共感なんていらない。
他人の真実にのっかる気はない。
真実を売って事実を買うんだ。
幻想を売って形あるものを買うんだ。
あとは好き勝手に解釈すればいい。
それぞれの真実を基に。
嘘か真か判断すればいい。
それは形なきものの宿命。
呼び名とかジャンルとか何に属しているとか、そんなのどうでもいいこと。
そうしないと落ち着かないから。
安心できないから。
仲間外れにされるから居るだけのこと。
容量以上は入らないし、形のないものは入れられない。
そこに枠はない。
箱も囲いも何もない。
表現というもの、表現者という存在について考えさしてくれる人です、町田康という作家さんは。

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