先日のことです。
寺社めぐりをしました。
もち、仕事で。
有料拝観の庭園や寺社を見て回ったのです。
そん時、ふと気づきました、、、
いや、理由に出来そうなことを見つけた、と言うべきか。
「何で寺や神社、庭に金払って入らなアカンねん。」
「単なる金儲けやん。神も仏もお金が好きってか。」
なんてことを思っていたんですね、今まで、というか今でも。
でも、ちゃう見方も出来んちゃうかな、って気づいたわけ。
お金を払うことで、閉じられた空間を、現実世界から切り取られた(と勘違いさせてくれる)空間を買っているんではないだろうか、と。
清水寺とか、あんな人だらけんとこではそんなこと思いもせんやろけどね、今回行った紫陽花もツツジも咲いてへん時季の三室戸寺とか、藤も何も咲いてへん時季の城南宮神苑とかやと、んなことを思ったわけです。
ねずみーランドとか、ゆーえすじぇーとか、水族館、博物館、サーカス、その他もろもろなんかもね、そういうもんなのかな、と。
まぁ、現実主義者のワタクシには無意味なこと、やとも思いましたがね。
これまた先日のことです。
写真について、写真を撮ることについて考えてました。
「何故写真を撮るんだろうか?」
「それほど残したいモノ、記録したいモノがあるのだろうか?」
忘れることも、都合のいいように変えてしまうことも出来ない。
現実を切り取って記録すること。
それが写真を撮るということ。
芸術であろうと、単なる写真であろうと、何であろうとも、「それを写真にする意味は?」と突き詰めていけば、そういうこと。
そこに存在するものしか撮ることは出来ない。
想像は出来ても、創造は出来ない。
他者から見ればそう見えなくとも、感じなくとも、自分からすればトレースか、無意識下での他者の真似ごとでしかない。
分かっているのに、そのことに失望しているのに、何故。
そもそも、残したいモノなんて存在しない。
記録する必要もない。
やのに、ナゼ撮るのか。
出来ることがそれしかないから。
やから、それを選んだのではないか。
想像と創造。
やれるコトとやりたい(と思われる)コト。
ココ最近、その狭間で悩んでいます。
明日と明後日、また仕事休みます。

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