『余命1ヶ月の花嫁』流行ってますな。
今日の深夜にはドキュメント版の方の再放送もあるそうで。
いや〜「皆さんお涙ちょうだい」ってなもんですな〜。
別にね、他人の生き方にイチャもんつける気はございません。
もちろん、死んだ人の思いや生前のことに関してもね。
けどな、思うわけ。
光市母子殺害事件の本村さんと同じなんちゃうかと。
そう、残された人たちがコレから負っていかなければならないモノの大きさや、役割、足枷、そして演じ続ける苦しみという点において。
ドキュメントの方をリアルタイムで見た記憶があります。
死ぬ人は誰しも、誰かに何かを残したいと想い願うもの。
そう考えます。
ドキュメントの制作は、それを形にしたモノやったんやろうと思います。
しかし、1度形にしたモノは壊れることがナイ限り後に残るし、自分たちの手の届かないとこに行ってしまったり、コントロール出来ない状況に陥ってしまったり、誤解や軋轢を生んだり、理不尽な非難を浴びたり、、、
そして、それを負うのはいつも残された人たち。
振り回され、引きずって生きていかなければならない。
アノ人の家族、友達という枷を背負いながら。
何かを残すということはそういうこと。
それほどにまで大きいこと。
それを承知の上にしたのであれば、何も言うことはない。
ただ、その勇気に対して称賛を送るのみ。
しかし、そうでないとするならば、自分のした行為の結果に対して向き合わず、愚痴をこぼしたり逃げたりするなら、、、
アナタも誰かに何かを残せばいい。
なぜなら、逝ってしまった人は決して責任を負うことはナイのだから。
ドキュメントというものは1つの完成された作品であり、それをドラマや映画で焼き直すことには否定的だ。
1つだけ理由を挙げるとするなら、ウソの2度塗りになるから。
ドキュメントに必ず付き纏うモノ。
それは“ヤラセ”という言葉。
ヤラセかヤラセじゃないか、ウソかウソじゃないか、、、
けど、よう考えてみればそんなこと始めから問題にするようなことではない。
それはナゼか。
簡単なこと。
ウソのない話、思い出、人生などありはしないのだから。
人は人と接する時、どこかで必ずウソをつく。
自分自身に、あるいは接する人に対して。
ウソをつくことで人は人に対して優しくなれるし、何かを、誰かを許すことが出来るし、誰かを愛することが出来る。
そう、人はウソをつく。
優しさという名の、愛という名の、あるいはウソという名のウソを。
人を追った、人を映したドキュメントにウソがあるのは必然。
なぜならば、そこに映っているのは誰かに対する言葉、思い、優しさ、愛といったモノであり、ウソをつき自分自身を演じる、人そのものであるから。
コレから彼、彼女たちは、残された人たちはどういう決意をもって演じて、生きていくんやろ。
1つだけ言えること、確実なこと。
それは、逝ってしまった人はいつも幸せだということ。

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