走りたいから走っていた人にとって、走りたいという感情が湧きあがってこないこと、それは致命的なことである。
○月にハーフマラソンを走るから、そろそろ準備のために走らなアカン。
ダイエットのために走らなアカン。
健康のために、、、
などという理由で走ることが、オレには出来ない。
やっぱり、走りたいから走る。
それ以外のために走ることは、苦にしかならない。
先日、村上春樹さんの『走ることについて語るときに僕の語ること』という、ジャンルで分けるならエッセイといえる本を読みました。
村上さんは、毎年最低1回はフルマラソンを走るランナーだそうです。
夏はトライアスロン、冬にフルマラソン。
そういうサイクルで大会にも参加しているそうです。
本の内容については特に触れませんがね、他の人が普段、またはレース中何考えながら走ってんのかとか、その他諸々、知れて良かったわ。
やっぱランナーて似たようなこと考えながら走ってて、走り終われば同じようなこと思うんやな、て感じた。
それとともに、去年の小豆島オリーブマラソンのことも。
ご存知かそうでないかは知らんけど、去年オレは完走すらしたものの、残り数kmを歩いてもうてん。
レースで歩いたん初めてやってん、アレが。
それまでは途中で吐こうが、どんなに苦しかろうが歩くことはなかった。
確かに、脹脛が攣ってもうて仕方ナシに、ってのはあるよ。
走ることが楽しいと再確認出来た、とも書いたよ。
でも、もう1度考えてみると違う思いも。
走っていた間は楽しかった。
しかし、歩いていた時は?
そういう状況を招いてしまったことについては?
もはや自分はランナーではないのでは?
走ることに意味はなく、走り続けることによってその意味を見出す。
そう信じて、あるいは思い込んで走り続けてきたはずやのに、続けることが出来なくなった者に意味を見出すことは不可能なのでは?
理由や意味なんてもんはいつも後になって分かるモノ、見出すモノ。
本を読んで、改めて自分に問いかけてみた。
やっと走ることを止めてしまった理由が分かったかもしれへん。
今の自分には走り続けるだけの強さが足りない。
理由や意味なんてナイ、それを分かりながらも続けるだけの強さが。
もう1度鍛えなおす必要があるんかもしれん。
そして、もう1回確かめる必要があるんかもしれん。
やから、やってみようと思う。
また走ろうと思う。
自分はランナーだと言えるよう。
走りたいから走ってるんやと心から言えるよう。
答えが出るのは秋か冬。
敵はいつも自分の中に。
そしてその戦いは、決して終わることのナイ戦い。
己に目を逸らさず、向き合い続ける限りは。。。

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