人に好意で何かしてあげる。
で、その好意に対する“ありがとう”。
これってセットやと、当然のモノやと、そう思っておられる?
実に不思議。
そういう方って必ずこう言い(思い)ますよね、
「いえいえ、お気になさらずに(別に見返りなんて求めてませんから)」
「とんでもない、好きでやったことですから(お礼なんていりません)」
って、“ありがとう”という言葉を返された際に。
やけど、その言葉がナイと一変。
やれ感謝の言葉も知らないだとか、やれ当然のことも出来ないだとか、恩知らず、人の好意を何やと思とる、っつう風にね。
実にオカシイ。
見返り求めてるんやん。
“ありがとう”って感謝されたいからしてるんやん。
自分が気分良くなりたい、優越感に浸りたい、親切心を人に晒したいがためにしてるんやん、頼まれもせんのに勝手に。
ホンマに見返りを求めてへんのやったら、たかが“ありがとう”のひとことがナイくらいで気分慨することもナイはず。
むしろ、「恩着せがましいことしてもうたかも」って不安、罪悪感なんかを感じるんちゃうやろか?
ありがた迷惑、なんて言葉も頭を過ぎるはず。
そら感謝されたい、褒められたい、ってこと思てないわけではナイ。
見返りを全く求めない対人的行動なんてもんは存在せ〜へんと思とるから。
認めること、これが大事。
決して否定しないこと、感謝、優越感、自己満足、モノ、金、それら何かしらの見返りを求めていることを。
期待しないこと、これも大事。
こちとら勝手に、ごくフツウのこととしてしとるだけ。
やから何もなくて当然、あれば感動モン。
ってか、好意押し付けた時点で優越感得たからそれで十分。
よう考えてみると、感謝するのはお互い様。
“ありがとう”までオマケしてくれて“ありがとう”、てな具合でね。。。
なんてことを彼は考えていたはず、瓦屋根の上で。
オレん足の上で(笑)
職場の休憩室。
机の上に缶かんが置いてあります。
開けてみるとそこにはお菓子が。
それは空になることがほとんどない魔法の缶。
食べると、なくなってくると補充したくなる。
減っては増え、また減っては増え。
皆で食べ、皆で分かち合う。
それは善意の連鎖。
善意の缶かん計画実験中。
今んとこエエ感じの結果にワレ満足。

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