2013/6/25

鍵・瘋癲老人日記  読書

「鍵・瘋癲老人日記」読了。
映画「鍵」を観てから原作との違いを考えたくて読み直したがかなり時間がかかった。
やはり、カタカナだらけの小説は読みにくいこと甚だしい。
この二作をなんとなく似た作品だと思っていたが、今回読み直してけしてそうではないように思った。
まず、解説で山本健吉が言っているように「鍵」は悲劇であり「瘋癲老人日記」は喜劇である。
両方に共通するものはエロスである。
私がこの小説を読むのは今回で多分3度目である。
初めは10代の頃、次が40代の頃、そして今である。
前読んだ時は「エロス」というキーワードばかり先入観のように頭の中でまわっていて、その奥にある心の不思議や老いについては少しも考えなかった。
「エロス」というキーワードでは2作品はかなり似ている。
この2作品の違いは、「鍵」の主人公「剣持」の年齢が56歳であり性欲と体力の衰えを感じくて性の付く食べ物や強壮剤で体力を補おうとしているのに対して「瘋癲老人日記」卯木督助は77歳でとうに肉体的なことはあきらめて、死の覚悟さえ出来ていることである。
いわば剣持は中年でまだ初老でもないが卯木は老人である。
卯木の滑稽さは気持ちの上では死の準備さえ出来ているのに、こと嫁の颯子のことになると気になって仕方ない。
彼にとって颯子を眺めて彼女の存在を感じることが「不能ニナッタ老人ノ性生活」であるのだ。
剣持にはそんな気持ちの余裕などない。これは老いゆく自分にたいするあせりだと思う。
彼を死に至らしめたのは(計画犯罪を匂わせる面もあるが)このあせりだと思う。
それに比べて督助はある事件で発作を起こし危うく死にそうになるが一命を取りとめたので、夏のプールサイドの颯子の姿を楽しみにしているのだろう。
最後の颯子と夫の浄吉の会話からそんな督助の姿が思い浮かぶ。
なろうことなら私も長生きをして「すけべ爺」になりたいものだと思っている。

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