今では、「青空文庫」で読めるようになっています。→
青空文庫 図書カード No.92 蜘蛛の糸
小学生の頃、国語の授業で読んで、感想を書いたりした記憶のある方もいらっしゃるのではないかと思います。
物語は、カンダタが蜘蛛の糸をつたって地獄から抜け出そうとする様を描写した文章の前後に、プロローグとエピローグがついている三段構成です。このプロローグとエピローグにあたる部分では、「御釈迦様」の様子を描写しています。カンダタは、放火、強盗、殺人などをはたらいた悪人ではありましたが、一度だけ、路ばたをはう蜘蛛を踏み潰そうとして思いとどまったことがある。「御釈迦様」は、その、小さな命に思いを寄せたことに対する報いとして、地獄から救い出してやろうと「御考えになりました。」しかし、蜘蛛の糸が切れて、カンダタが落ちていくと、「悲しそうな御顔をなさりながら」立ち去るのです。プロローグでは、「御考えになりました。」と「御釈迦様」の考えを表していますが、エピローグでは、「御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。」と推測するだけです。
「悲しそうな御顔をなさ」ったのだから、蜘蛛の糸は、「御釈迦様」が切ったのではなく、他の理由で切れてしまった。では、どうして、蜘蛛の糸は切れてしまったのか?...カンダタが自分ひとりだけ助かろうとしたから...思いやりのない自己チューに蜘蛛の糸が反応して切れてしまった...ごく単純な「解」のひとつ。そこで、「それじゃあ、どうすればよかったの?」と問われて、感想文の続きが書けなくなったりするわけだけど、小学生には難しくない?
蜘蛛を踏み潰さなかったことは、小さな命をいたわる心を持っていたことの証(あかし)ではありますが、ガンダタ自身は、そのことを忘れてしまっているようです。「あの時」その一度だけ、そういう気持ちがわいてきたのに、その後、再びそういう気持ちがわき上がってくることはなかった。それでは、どうすれば、そういう気持ちを常に持ち続けることができたのだろうか、ということですよね。
放火や強盗、殺人が、カンダタの日常でした。腹が減ったら強盗に入る、あるいは、他人が苦しんだり泣き叫ぶ姿を見ることが楽しみだったのかもしれない。人の悲しみや苦しみに寄り添うことなどない生活をしてきたカンダタが、あの時だけ、蜘蛛に寄り添って考えることができた。でも、人間に寄り添って考えるところまでいかなかったのです。それはやはり、人とのつながりというものがなかったからではないでしょうか。誰しも、ひとりでこの世に生を受けるわけではありません。カンダタにも父と母がいたに違いないが、ものごころつく頃には、離れ離れとなり、親子とか家族というものを知らずに育ったのでしょう。他人同士であったとしても、そこに義理人情や友情、愛情を生まれるものですが、カンダタの人生に、そういう場面はなかったのでしょう。それとも、裏切りにあって、人間不信に陥ってしまい、それからは、完全に一匹狼の世渡りだったのかも。いずれにしても、他人を信じる、愛するということを知らずに生き、そして死んでいった。
蜘蛛を踏み潰さなかったことから、命の尊さは知っていたようです。でも、他人を思いやることや信じることは身についていなかったようです。カンダタは、蜘蛛の糸の途中までのぼって下を見下ろした時、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と叫びます。もとより、蜘蛛の糸は「己のもの」ではありません。また、カンダタは、蜘蛛の糸を頼ってここまでのぼってきたのですが、自分の命運をこの細い蜘蛛の糸に預けていることをすっかり忘れています。自分ひとりだけ助かりたいという気持ちは、いままで、誰にも助けてもらわず一人で生きてきたことが身にしみているからでしょう。
そうであるならば、カンダタに欠けていたのは、人を愛する気持ちや、人を信じて頼る気持ちではないでしょうか。細い蜘蛛の糸であっても、それを信じてのぼれば、新しい境地にたどり着けるかもしれません。他人とつながりをもつことで新しい生活の知恵を得ることができ、ひとりでびくびくしながら毎日を過ごさなくてもよいことを知っていたなら、カンダタの生涯は違っていたでしょう。
「人に頼る」という行為は、相手を信頼できなければ難しいことです。人間不信の塊になっていたのでは、誰かに頼ることはできません。信じられる相手を見つけるか、自分が信じてもらえる人になるか、というと、卵が先か、鶏が先か、みたいですが、...地道な努力・行為を続けて獲得していくしかありません。一度、人間関係が崩壊してしまってから築くのは、なかなか苦労します。でも、その努力を認めてくれる人がいることを信じるしかありません。周りの人は、その人の努力に「気づいているよ」という信号を送ってあげましょう。そうでないと、誰にも認めてもらえない努力など、すすんでやりたいものではないでしょう? 人のつながりは、一人ひとりが自分なりに努力して、互いに相手の努力を認め合うことから始まるのかもしれません。
わたしたちは、社会の中で孤立しないために、
人から認められたい、できることなら、頼りになる人、役に立つ人でいたい、
と同時に、自分も人を信じたい、誰かに支えてもらいたい、という気持ちを持ち続けることが大切なのではないでしょうか?
そして、その気持ちを誰かに伝えられること、受け止めてくれる人がいること、そういう環境づくりが必要なのかもしれません。

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