遺跡(ゆいせき)講式の後半。第三段は釈尊の遺跡の功徳を讃え、第四段は遺跡を恋慕した法顕について、第五段は発願廻向。
四座講式をつくった、明恵(みょうえ、1173〜1232)は、インド渡航、仏蹟巡礼も考えていて、その志を周囲にも伝えていたようです。ところが、建仁三年(1203)、母方の湯浅家から「春日大明神の託宣」を伝えられ、渡航中止を余儀なくされます。この年、明恵は『舎利講式』一巻をつくり、翌年、湯浅家の館において涅槃会をおこなっています。元久二年(1205)には、中国・長安からインド・王舎城にいたる日数を計算したりするのですが、これには、玄奘『大唐西域記』や法顕『法顕伝(仏国記)』を参考にしたことでしょう。しかしこの時も、渡航の計画を練ったりすると病気になったりと、障りが生じたため、祈請してみたところ、やはり、わたるべからず、と出たため、断念したということです。その仏蹟巡礼への熱い思いが、講式の文章にも表れています。

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