終戦記念日
とは関係ないですが、地元の友人に声かけていただいて、暑さの中、宇都宮市の城址めぐりを敢行(終わってから、よく思い切って行ったもんだと思いました)。
まずは、犬飼城(別称:根古屋城)
場所は、宇都宮市上欠町、聖山公園の南側、根古屋。このあたりは、東を姿川、西を武子川に挟まれたところに、半島のように台地が延びています。「うつのみや遺跡の広場<史跡・根古屋台遺跡 昭和63年文部省指定>」の資料室に展示されていた模型では次のように表現されています。
1枚目の画像の左側が、縄文時代の遺跡群を復元した「うつのみや遺跡の広場」で、その南に平坦地があり、平坦地の先(2枚目の画像)には雑木林が表現されています。この台地の東(画像では上)に姿川、西(画像では手前)に武子川が流れています。
1枚目の画像の左端の丸いのは、「将軍塚古墳」(7世紀前半頃の円墳)を表現。そのほか、縄文時代前期のかなり大型の建造物や掘立柱が復元されていましたが、墓地になっている広場を囲んで建ち並んでいるということで、集落跡ではないようです。
現在、霊園となっている場所では、石室が確認されており、古代の石室があった場所に、現代人の霊園が造られることに、何か不思議なつながりを感じます。
資料室の模型で根古屋の台地の南端に雑木林で表現されていた一帯(2枚目の画像の右側)が、犬飼城の遺構です。2万5千分の1地形図を見ると、姿川の近くに、103.1mの三角点があり、雑木林の周縁部に105mの等高線、遺構の中央部付近で115m、北側の聖山公園付近に120mの等高線が見てとれます。
まず、北側から、雑木林を抜けて、西側の水田地帯へ降り、南側に廻って土塁への上り口を探し、「本丸」へ突入します。
上の画像は、南側の水田地帯から犬飼城址の西側面を見たところ。人の手が加えられ、樹木の生育が抑制されていた場所がわかりますが、植物に覆われています。
外側の土塁の上から、堀(手前から右奥へ)を挟んで、内側の土塁(左上)を撮る。
上り口で「天保八酉年」(西暦1838年、江戸時代後期)と書かれた墓石を見かけました。犬飼城は、南北朝の1379年、小山義政の築城とされ、1573年、宇都宮氏に攻められ廃城となっています。その後、現在まで放置されていたために、土塁や堀などが確かめられるのですが、そこにひっそりと貼りつくように、江戸時代の墓石があります。たぶん、現在、水田となっている平地は、かつて姿川、武子川の氾濫原だったと思われます。墓石の位置は、河川の氾濫を避ける高さでしょう。ただ、集団墓地ではないので、移動してきた可能性もありますが。
友人がコピーしてくれた「縄張図」を見ても、「本丸」が台地の中心線よりも東寄りにあり、屈曲した土塁と堀を巡らせた南・西・北側面と比べて、東側面は単純。東側は、直下に姿川が流れていたのかもしれません。
友人が「縄張図」をコピーしてくれたのですが、藪の中で見通しがきかないため、どこにいるのか、判別しにくい。それに、朝のうち晴れていたので、方位磁石無しでも方角はわかるか、と思っていましたが、持って行くべきでした。次回は、北側から「本丸」を狙いたいものです。
(深津城、飛山城へ続く)

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