東京国立博物館で日本の宮廷の美を堪能した後は、チベットの王宮の美に触れたいと思う。
聖地チベット−ポタラ宮と天空の至宝− 9/19〜来年1/11
展示はまず、吐蕃王朝のチベット統一から始まる。統一を成し遂げた王の名を、ソンツェンガムポ(581?〜649)という。
ソンツェンガムポは、ネパールと唐から2人の姫をめとる。ネパールからはティツゥム王女を、唐からは、文成公主を迎え入れるが、この時2人の姫は、自国の文化の優位性を示すため、それぞれ書籍や工芸品などを持参したが、そのなかには、経典や仏像も含まれ、これが、チベットが仏教国になるきっかけとなった。2人の妃は、チベットに寺を建てたいと思ったが、文成公主が占ってみると魔女・羅刹女の姿が現れた。そこで羅刹女の動きを封じるため、両手足と心臓にあたる場所、計十三か所に寺院を建てた。心臓にあたる場所というのが、現在のラサである。仏教伝来以前の吐蕃は、ボン教が広まっていたが、寺院を建立して、魔女の動きを封じる、という説話は、仏教に対抗する勢力の強かったことを示すと見られる。これより後、ソンツェンガムポは、チベット文字を作らせ、サンスクリット語経典を翻訳させた。ソンツェンガムポは、後世、阿弥陀如来の化身であるところの観音菩薩の生まれ変わりとされ、ダライラマ十四世は、ソンツェンガムポの生まれ変わりと信じられている。
<弥勒菩薩立像>(銅造鍍金・彩色、東北インド・11〜12世紀) 頭部は金色に輝いているが、胴体は黒ずんでいる、これは、通常、胴体は衣に包まれていて、頭部だけが、繰り返し金泥が塗られているから。しかし、チベット仏教の信者の前でさえ、衣をまとっているというのに、異国の地で衣を取り去ってよいものだろうか。哀しい。
化仏(けぶつ)のついた宝冠をかぶり、胸前の右手で施無畏印(せむいいん)を、腰前の左手で水瓶付きの蓮茎を持つ。下衣には金銀の象嵌がほどこされている。頭部、上半身と下半身が優美な動きを見せるこの仏像は、チベットにもたらされた東北インドに栄えたパーラ朝期彫刻作品中の白眉である。(作品解説より)
チラシ(裏面)にも載っている<ダマルパ坐像>(銅版打出鍍金、チベット・16世紀前半)を含む5体の坐像は、全部で21体あるそうだ。背後の壁面上部には、仏堂梁簾(Temple banner)という錦の装飾を吊ってある。ヴィルーパは、サキャ派の哲学の中心となる「道果説」を説いたインドの聖人。サキャ派の宗祖は、コンチョクゲルポ(1034〜1102)であり、その孫、タクパギャルツェンの坐像は、二重の蓮華座に座し、高僧と呼ぶにふさわしい坐像だ。なお、これらの坐像が現在保管されている、ミンドゥリン寺は、かつてニンマ派の寺院だったが、1951年、中国によって破壊され、その後、再建、文革期には、再び中国に取り上げられ倉庫として使われた、という来歴をもつ。ニンマ派にしても、サキャ派にしても、現在、その拠点はインドへ移っている。
<アティーシャ坐像>(銅造鍍金・彩色、明・15〜16世紀) アティーシャ(982〜1054)は、1042年にチベットの招聘に応じて渡来した、インドの高僧。チベットにおいて、翻訳・著作活動にあたり、多数の弟子を育て、チベット仏教の体系化に貢献した。
チベットの仏典は、カンギュルとテンギュルに大別される。カンギュルとは、「仏のお言葉をチベット語に訳したもの」、テンギュルは、「論書をチベット語に訳したもの」という意味で、ソンツェンガムポ王の時代からチベット語への翻訳が始まったといわれる。翻訳のためにチベット語の文字と文法も整備された。9世紀後半、吐蕃王朝の崩壊とともに仏教も一時衰退したが、10世紀後半頃から再開された。当時は手書きであったが、明の永楽帝(在位:1402〜24)は、宮廷の工房に木版印刷で作らせ、チベットへ贈ることもした。チベットにおいて木版が始まったのは、18世紀に入ってから。
インド(パーラ朝・11世紀後期)からもたらされた、梵文『八千頌般若波羅蜜多経』は、多羅(ターラ)葉139枚に書写されたもの。
<四部医典>(紙本木版)は、清朝において木版印刷されたものが展示されている。中国・清朝では、乾隆帝(在位:1735〜95)が信心深く、寺院や仏像の造立に熱心だった。『四部医典』は、チベット医学のバイブル、吐蕃王朝時代から追補、大系化されてきた。「根本タントラ」「解釈タントラ」「口伝タントラ」「結尾タントラ」の四部から成り、正しくは、『八支医学の甘露の真髄 秘密の口伝タントラ』という。薬師如来の化身が、医学の学び方や治療法について、師弟の問答形式で語り合うというもの。
<十一面千手千眼観音菩薩立像>(銅造鍍金・トルコ石・彩色、チベット・17〜18世紀) この美しさには、言葉が出ない。
<カーラチャクラ父母仏立像>(銅造鍍金・トルコ石・珊瑚・彩色、チベット・14世紀後半) 「カーラ」は時間、「チャクラ」は存在を意味し、「時輪」と訳される。この像も通常は、衣をまとう。
一切の悪に打ち勝つ力であるカーラチャクラ(時輪金剛)は、4つの顔と24本の腕を持ち、その妃と抱き合っている。方便(ほうべん)(実践)を象徴する男性の仏と、般若(はんにゃ)(智慧)を象徴する女性の仏が一体化することによって得られる悟りの境地を表現している。(作品解説より)
<グヒヤサマージャ坐像タンカ>(絹本刺繍、明・永楽年間1403〜24) グヒヤサマージャは、秘密集会(しゅえ)タントラの主尊。タンカとは、ヨーガの観想に使われる、織布の掛幅のこと。丸めて持ち歩ける。
体色は深い藍色で、三面六臂のグヒヤサマージャ(密集金剛)を大きく表現し、龍樹菩薩などの祖師を画面上方に、また下方には六臂の大黒天等を配している。異なった色の刺繍糸を用いて巧みに立体感を表現しており、明代宮廷工房による作品と考えられる。(作品解説より)
<ダーキニー立像>(銅造・彩色・トルコ石・珊瑚・骨、チベット・17〜18世紀) 日本のダ枳尼天(だきにてん:ダの字、托の手へんを口へんにした字)の由来となる女尊。左手に「カパーラ」を持つ。秘密集会タントラ。
男性修行者の修行を助ける女尊。良好な関係であれば快楽の先に悟りをもたらすが、ひとたび機嫌をそこねると喰い殺すという。(作品解説より)
<カパーラ>(頭蓋骨・金・真珠・トルコ石・貴石、チベット・19世紀) 水を「聖水」に変える力を持つ。
高僧本人の遺志に基づき、その頭蓋骨から制作されるチベット密教独特の法具で、「有と無の分別を断つ」象徴として、また儀式用の液体を聖化するのにも用いられる。金製の台と蓋はトルコ石や真珠などで飾られており、優れたできばえを示す。(作品解説より)
<パクパ坐像>(玉造・彩色・銅造鍍金・トルコ石・貴石・真珠、元・13〜14世紀) パクパ(1235〜80)は、モンゴルが侵攻してきた時、和睦のため、モンゴル宮廷へ赴いたチベット僧。フビライ・ハーン(在位:1260〜94)が王位に就くと「帝師」に就任し、モンゴル語を表記する文字としてパクパ文字を作成した。
<大元帝師統領諸国僧尼中興釈教之印>(白玉製、元・1294〜1307) 元の成宗は、フビライの後を継いだ、テムル(在位:1294〜1307)。シルクロード交易がもっとも盛んだった頃。
「皇帝の師」を意味する帝師は、元朝における僧侶の官職名で元の皇帝がチベット人僧侶から戒を受けるならわしがあったことによる。モンゴル帝国第六代皇帝成宗から与えられたこの白玉製印の印文は、帝師パクパがチベット文字から作りだした縦書きのパクパ文字による。(作品解説より)
<チャム装束 チティパティ> 仏教伝来以前の土着の宗教である、ボン教の舞踏を取り入れた仏教行事・チャムで使われる衣装。チティパティとは、鳥葬場の守り神で、魔を祓う、とされる。頭につけた5個の髑髏は五罪(貪欲・妬み・愚かさ・幼稚さ・欲情)の克服を意味する。鳥葬といえば、アンデス地方でも行われていたと思うが、高地では、火葬のための燃料となる木がない、土葬するには柔らかい土の層が浅い、早く、あの世に送ってあげたいと願っても、乾燥冷涼な気候だから、死体の腐敗が進まない、というわけで、鳥葬というのは、合理的な手法なのかもしれない。
祈祷呪術を伴うチベットの密教儀礼で、僧侶による仮面舞踏会(チャム)に用いられる装束。髑髏面をかぶり、骸骨衣装を着たチティパティは、鳥葬場の主で、チャム開始時に夫婦で登場し、忿怒尊や眷族の出入り口に門番のように立つ。(作品解説より)
<ドゥンチェン>(銀製・銅造鍍金、チベット・17〜19世紀) 儀式で使われる、金管楽器。部品3つをつなぎ合わせた全長は、3メートル25センチという、アルプス・ホルンのような(ただし、曲がっていない)、長大なチャルメラで、ブォ〜〜〜という低音を発する。地面に触れないように先端部を乗せる架台(銅造鍍金・彩色)には、2体のチティパティが表現されている。
<四部医典タンカ>(紙本着色、チベット・20世紀) 『四部医典』の掛図80図のうち、5図。四部医典継承図は、継承者の見分け方を示したもの。
最後に、ビデオ・コーナーがあったが、これは、最初に見ておきたかったと思う。
参考文献: 石濱裕美子『エリア・スタディーズ チベットを知るために50章』(明石書店、2004)
ブログ本文中の歴史的な事柄などは、同書を参考にしました。
参照サイト
上野の森美術館 聖地チベット展公式サイト
メモ: 最寄り駅 JR上野駅公園口、メトロ銀座線・日比谷線上野駅
料金 1400円
滞在時間 約2時間

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