仏教辞典も持たずに、<四座講式>を読み始めたのは、むちゃだったかなと思いつつ、本文をながめ、釈尊を追慕したいと思います。
まず、本題に入る前に「釈迦」と「涅槃」という言葉の意味について、
仏陀(ブッダ、buddha)は、仏ともいい、悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す。buddha はサンスクリット語で「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。ウィキペディア−仏陀
釈迦(釋迦、しゃか、 梵名:シャーキャ、一説に前463年 - 前383年、前560年 - 前480年等)
本名(俗名)は、パーリ語形 ゴータマ・シッダッタ またはサンスクリット語形 ガウタマ・シッダールタ(ガウタマ・シッダルダとも)、漢訳では瞿曇悉達多(くどん しっだった)と伝えられる。
「釈迦」は釈迦牟尼(しゃかむに、シャーキャ・ムニ)の略である。釈迦は彼の部族名もしくは国名で、牟尼は聖者・修行者の意味。つまり釈迦牟尼は、「釈迦族の聖者」という意味の尊称である。
称号を加え、釈迦牟尼世尊、釈迦牟尼仏陀、釈迦牟尼仏、釈迦牟尼如来ともいう。ただし、これらはあくまで仏教の視点からの呼称である。僧侶などが釈迦を指す時は、略して釈尊(しゃくそん)または釈迦尊、釈迦仏、釈迦如来と呼ぶことが多い。
称号だけを残し、世尊、仏陀、ブッダ、如来とも略す。ただし、仏教では仏陀・世尊・如来は釈迦牟尼だけではない。特に浄土真宗では単に如来というと阿弥陀如来を指すことも少なくない。
日本では、一般にお釈迦様、仏様(ほとけさま)と呼ばれることが多い。ただし、仏様は死者の意味に使われることも多い。
仏典ではこの他にも多くの異名を持つ。ウィキペディア−釈迦
このように「仏陀」というのは固有名詞ではなく、また、「釈迦」というのも部族名もしくは国名として用いることもあるので、本稿では、実在した釈迦牟尼については、「釈尊」という呼称を用いることにします。
また、
涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされる。しかし、ニルヴァーナは「吹き消すこと」「吹き消した状態」という意味だから、煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態をいう。その意味で、滅とか寂滅とか寂静とか訳された。また、涅槃は如来の死そのものを指す。涅槃仏などはまさに、死を描写したものである。「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれる。ウィキペディア−涅槃
「煩悩」から解き放たれた状態を「涅槃」と呼ぶわけですが、この煩悩は、「執着」から生じる。肉体があるうちは、「死」を嫌い、「生」に執着する心があるため、肉体の死をもって煩悩から解放された状態を「涅槃」と呼ぶわけです。
なお、インターネット上では、
ウィキペディア−仏教用語一覧があるので、興味のある方は、そちらを参照下さい。
前置きが長くなりましたが、それでは、涅槃講式の「表白」
ク(牛へんに句)尸那城跋提河 在娑羅林双樹下
頭北面西右脇臥 弐月十五夜半滅
南無大恩教主釈迦牟尼如来生々世々値遇頂戴
敬って大恩教主釈迦牟尼如来、涅槃遺教八万聖経 娑羅林中五十二類 一々微塵毛端刹海 不可説不可説の三宝の境界(きょうがい)に白(もう)して言(もう)さく。
それ法性(ほっしょう)は動静(どうじょう)を絶つ。動静は物に任せたり。如来は生滅なし。生滅は機に約せり。かの
瑟(びしゅ:ビの字は革へんに卑)長者、栴檀塔の中に常住の仏身を見、海雲比丘 大海水の上に普眼契経を聞くが如きに至っては、誰れか歓喜の咲(えみ)を藍園の誕生に含み、痛惜の涙を双林の入滅に流さんや。ここに知んぬ。八相一代の化儀は、長眠の群類を驚かす明燈、三百五十の諸度は、沈淪の諸子を渡す飛梯なり。その光照 遠く末代に迄(およ)び、その済度 闡提(せんだい)をも捨てず。嗚呼。憑(たのも)しい哉。快い哉。われら聞信の功徳(くどく)あらば、長夜も将(まさ)に暁(あ)けなんとす。結縁の善根あらば、苦海も当(まさ)に渡んぬべし。これに依って、今月今日を迎うる毎(ごと)に、四座の法莚(ほうえん)を開演して、泣(なくな)く双林入滅の昔を恋い、慇(ねんごろ)に現在遺跡(ゆいせき)の徳を忍ぶ。且(かつ)うは滅後弧露の悲歎を慰(やす)めんがため、且(かつ)うは当来値遇の大願を成(じょう)ぜんがためなり。一一の旨趣を開くこと、後々の講席にあり。当座はこれ開白(かいびゃく)涅槃の初度なり。中に於て、入滅 荼毘 涅槃因縁 双林遺跡 発願廻向の五門を立てて、粗(ほぼ)恋慕悲歎の旨を顕(あらわ)す。
ここまでで涅槃講式の8分の1くらい。 最初に伽陀(かだ)と呼ばれる、七言絶句形式の漢詩(?)が唱えられます。 講式の中途にも、五言絶句、七言絶句形式の伽陀が挿入されますが、そのまま記載します。
この部分は、釈尊をはじめ、諸々に対して、これから講式を始めることを告げ、釈尊の教えをたたえ、これから始める講式のあらましを述べています。
「ク尸那城(くしなじょう)」は、釈尊入滅の地クシナガラ。城の字をあてているが、城郭があったわけではないらしい。
「釈迦牟尼如来」は、釈尊のこと。
「娑羅林中五十二類」 涅槃に際し、獣から虫にいたるまで、五十二類の生き物が集まった。
「三宝の境界」 三宝は「仏」「法(仏の説いた教え)」「僧(僧伽)」のことで、ここでは、この世をあまねく満たしている、三宝を敬っています。
「法性」 法とは、釈尊の教えであり、真理をあらわしており、変化するものではない。
「藍園の誕生」 藍園は、釈尊生誕の地、ルンビニーの遊園。その遺跡は、世界文化遺産に指定されている。
「八相一代の化儀」とは、釈尊が一回の人生で、「入胎」「誕生」「処宮」「出家」「降魔」「成正覚」「転法輪」「入涅槃」の八相を成就させ、それを人々に教え示したこと。
「沈淪の諸子を渡す飛梯」というのは、釈尊の教えを、俗世に沈みこんでいる凡夫を救い出すハシゴに例えたものか?
「闡提をも捨てず」 闡提(せんだい)は、「一闡提」とも書き、欲望や執着心が強く、煩悩に惑わされて、仏法を信じることができない者を言い、成仏できないとされるが、その闡提をも見捨てない、ということ。
続きは、
涅槃講式(二)
この前の記事は、
明恵と四座講式
なお、記事タイトルの(一)(二)というのは、便宜上つけているので、講式の表題に、(一)(二)とついているものではありません。

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