昨晩の
NHK 知 る を 楽 し む(NHK教育 月〜木曜日午後10:25〜)は、
民俗学者、小松 和彦氏が、<日本史上でも最大級の怨霊として後世に名を残した崇徳天皇>ゆかりの地を訪ね、その人生と祟り神となった背景を解説。
崇徳天皇については、以前、辻邦生『西行花伝』を読んで(この時の読後感は
こちらの記事)、悲運の上皇が、怨霊に化身したというイメージはありましたが、...。
ウィキペディアより、
崇徳天皇
番組では、まず、四国霊場第八十一番札所、白峯寺(しろみねじ)にある、頓証寺殿が紹介される。 ここは、崇徳上皇の御廟である。 崇徳上皇は、白峯山山頂付近で荼毘に付されたが、その煙は上空へ昇らず、都の方角へたなびいたという。 高家神社は、白峯山へ向かって葬送の途中、棺を休めたところ、血が流れ出たといわれ、血の宮とも言われる。 他に、都よりの使者が来るまで、ご遺体を浸して置いたと伝えられる湧泉などが紹介された。
崇徳上皇は、その出生からして悲運を背負っている。 父・鳥羽院の実子ではなく、鳥羽院の祖父である白河院と、鳥羽院に嫁いだ待賢門院との間にできた、不義の子であった。 鳥羽院は、それを知っていて、白河院の死後、巧みに譲位を行ない、崇徳に実権を譲らなかった。 鳥羽院の死後、崇徳上皇と後白河天皇が対立する保元の乱が起こり、敗れた崇徳上皇は、讃岐配流となり、その地で五部大乗経を写経した。 その写経を都へ送ったところ、送り返されてしまう。 崇徳上皇は、これに怒り、写経に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」(怨霊となって、天皇家と民衆の地位を逆転させてやる)と書き込んで海へ沈めたという。
小松氏は、「崇徳上皇は、自ら怨霊になろうと決意して怨霊になった」「生前から確信を持って天皇家を呪うと誓って死んだ」ことが他の怨霊と大きく異なると述べている。
崇徳上皇の死後、武士が台頭し、崇徳上皇の呪いどおり、天皇家の権威は失墜し、民衆(武士)が台頭し、武家社会が成立する。 そして、都での騒乱や天変地異が相次ぐと、崇徳上皇の祟りではないかと噂が立つ。
小松氏は、「勝者の側の後ろめたさ・罪悪感が増幅されるなかで、勝った側が怨霊を生み出したと考えられる」とも言っておられた。
京都市内にある、白峯神宮(しらみねじんぐう)は、明治天皇が崇徳上皇の霊を慰めるため、建立した。 つまり、明治時代になっても、崇徳上皇の霊は、生き続けていた(記憶されていた)ことになる。
上田秋成『雨月物語』巻之一「白峯」は、讃岐の陵墓を訪れた西行が、崇徳上皇の霊と語り合うというもので、物語の最後には、その怨みによって安徳天皇、平家一門をも瀬戸内海に沈めたという話がでてくる。
ちなみに、三大怨霊とされるのは、
・崇徳上皇(1119〜1164)
・菅原道真(845〜903) 太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、北野天満宮(京都市)、ほか
・平将門(?〜940) 神田明神(東京都千代田区)、国王神社(茨城県坂東市)、ほか

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