2016/8/30

「散歩ですか!」  

犬や猫がなにを思っているかは、本当には分からない。
だけど、まあ間違いなくそうだろうと分かる、仕草や態度というのはある。

たとえば「餌くれ」というときに犬がみせる態度を、「なに言いたいんだろう」といつまでも分からない人間は、なかなかいない。
「餌、餌っていってるよ」「ほら、散歩をせがんでる」と、我々(人間同士)は言い交わし、餌をあげたり散歩に連れて行ったりする。


「バター柔らかくし器」の博士の愛犬、クロエをあずかっている。
寡黙で臆病な犬だが、散歩のときだけは元気に動く。
朝、トイレに起きただけなのに、外から気配を察して「散歩ですか!」と立ち上がる(気配がする)。
ドアを開けるとテラスですっかり出かける体勢だ。

ワンとか鳴くことは少ないが、明らかに焦れてこちらに向ける眼差しは
「(やっと)散歩ですか!」と言いたげなのだった。

昼でも夕暮れでも、テラスに出ると、同じ調子ですっくと立ち上がり、こちらを待つ。
それで「『散歩ですか!』」と、家の皆がクロエの台詞を代わりに「言う」ようになった。
「違うよ」とも付け加える(散歩ではなく、ただ布団を干しに出ただけなので)。


僕がアテレコで「散歩ですか!」と「言う」から、皆もその言い方になった。
しかし「散歩つれてって!」とか「散歩散歩!」とか、別の(同じ意味の)フレーズがあてがわれてもよかったところ、その「言い方」になったことには理由がある。

過去に一度、クロエが山にきたとき、来客のフジモトマサルさんが「言った」のだ。

フジモトさんが一番、テラスに近い(暗い)居間のベッドで寝泊まりしたから、朝のクロエの気配にも一番に気付いた。
「クロエが『散歩ですか!』という感じでみあげてきたから」早朝、散歩に連れてってくれたと。


「散歩!」とか「つれてって!」とかでない、散歩「ですか」という語の選び方が、実に彼(クロエ)らしいものだ。
散歩を「せがんで」いるのでない、ただ「期待している」という、露骨でない(がゆえに透けてみえる)願望が、フジモトさんの優しい洞察で見抜かれて、語の選びにも宿った。


それで八年ぶりくらいだろうか、久々に山で暮らす犬の態度にもう、僕はそれ以外の「言語」をあてはめることができなかった。

東京の博士の家で犬をみても、フジモトさんのあの絵柄のように、僕には思えるときがある。
「散歩ですか!」という「言葉」も、あのフジモトさんの描く「フキダシ」に入っている。
また、絵ではなく実写の、フジモトさんと犬がそうやって一対一で見合った瞬間に思いいたすことがある。その現場を、誰もみていない(クロエに聞くこともできない)が、見合った時間は本当にあった。

そして、今も家の中で言い交わされる形で「言葉」が残されたのだ。


人がいなくなっても残されるのは、作品や逸話だけではなく、フレーズ一つということもある。
それで、今もただ散歩にいきたそうな犬をみて、寂しい気持ちですうすうとする、こともあったり。
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