第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都、無事に終了し16日がたちました。
御礼が大変遅くなりましたが、寒い中、ご来場くださいましたたくさんのお客様、長時間おつきあいくださいまして本当にありがとうございました。
アートステージ567の本田ご夫妻はじめ、浜垣夫人優子さん、照明の山田さん、そのほかスタッフのみなさん、いろいろわがまま申し上げてごめんなさい。本当にお疲れ様でした。
今回もすばらしい絵で、イメージをささえて下さった鈴木広美ガハク、ありがとうございました。
内緒ですが、私の台本の前と後ろに一枚ずつ、チラシをはさんでいつでも見られるようにして稽古していました。勿論公演当日本番中もです。
そして慣れない音響をやらせた上に、毎回毎回遅くまで稽古につきあわせ、マネージャー兼スタッフ兼付き添いとして協力してくれた女房かなこさん。本当にありがとう。これからも苦労をかけますが、よろしくお願い致します。
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今回は写真もほとんど撮れておりませんので会場の様子は、主催のお一人で今回は解説というかたちで講演を担当された浜垣誠司さんのブログ
「宮澤賢治詩の世界」をご紹介してお茶を濁します。
浜垣さん。お疲れ様でした。何回も何回も、はるばる宝塚まで足を運び、稽古に加わってくださって、ありがとうございました。そして何より、今回のこの催しにお誘いくださったこと、本当に感謝の言葉もありません。
三時間になんなんとする長時間の公演でしたが、お客様は最後までじっくりと、賢治とトシ子、浜垣さんと私、ふたつの魂の旅にお付き合いくださいました。
ひかりの素足(抜粋)
イギリス海岸(抜粋)
永訣の朝松の針無声慟哭風林青森挽歌宗谷挽歌手紙四宗教風の恋この森を通りぬければ薤露清銀河鉄道の夜(抜粋)
賢治が、最愛の妹トシを失った悲しみのため、たちどまり、さまよい、うつむいたかおをあげてふたたび歩き出すまでを、凝縮した時間のなか、浜垣さんと二人で一気に駆けぬけた気がします。
「僕達は今、120万年をいっきに走り抜けてきたんだ、風みたいに―」
これは賢治の直接の言葉ではありませんが、アニメ・銀河鉄道の夜の中のセリフです。
脚本は別役実。
プリオシン海岸を駈け抜けて列車に戻ったカムパネルラが、ジョバンニにこう言います。
流石は別役先生のせりふだと、鳥肌をたてながら思ったものです。
閑話休題。
今回の私のかたりが、少しでもお客様の心に届いたとすれば、それは浜垣さんの講演を聞きながら稽古を積むことが出来たからだと思います。
断片として体に入っていた詩や物語に、「悲嘆の仕事」という太い軸を与えてくださいました。
『宮澤賢治の悲嘆の仕事―グリーフワーク』という講演が、私に新しくまっすぐな道を与えてくれたのだと思います。
私ははじめての浜垣さんとの稽古から公演当日まで、幸せな観客であり、かたり手でした。
本当に、ありがとうございました。
これからまた、ひとりがたりを続けていきます。
有り難いことに、今まで何年も何年も逡巡してきた『銀河鉄道の夜』のひとりがたりに、今回のことでひとつふんぎりがつきました。「ああ、やれるかもしれないな」と思えるようになりました。
悲しみの旅を終えて、賢治はもっと遠くへ歩を進めて行ったのです。
私ももう少し、遠くへ行ける気がしてきました。
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さて―――浜垣さんからありがたい出演のお誘いをいただいたのが5月の初め。
ぎしぎしときしむ音の聞こえる心と体をムチ打って稽古を重ね、ようやくなんとかお客様の前に身をさらす自信がほの見えて来たときは、もう11月の半ばでした。
「今回の浜垣氏との共演の旅は、どこかで死んでしまった僕の心への、悲嘆と再生への旅なのかも知れません」と、11月4日のブログには書いていますが・・・それからちょうど一週間後に悲しい報せが届きました。
10月30日、ものがたりを客席に届けるために、ながいながい時間をともに過ごしてきた大切な人が、トシ子の行ってしまった世界へと旅立たれました。
悲しくて、悔しくて、途方に暮れました。
今でも途方に暮れています。
この公演があったから、稽古を続けなければならなかったから、悲嘆の仕事と向き合わなければならなかったから、今日まで立っていられたのだと思います。
そして僕は今、新たな悲嘆の中に立っています。
たくさんの思い出を乗り越えて生きるために、これからその思い出を噛み砕き、呑み込んで反芻し、吐き出して、新たな物語に向かって行きます。
獨木舟文学館館長・田中元三さん。
田中さん。
もっとはなしを聞いておけばよかったです。
文学の話も、映画の話も、人生の話も。
田中さんのこと、また書きます。
ありがとうございました。
さようなら。

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