弥生3月である。誕生月そしてなにか感慨があるかといえば、いつもとたいして変わりません。
しかし、今日は泣かされた。たまたま食事中に見たTV番組に盲目の演歌歌手が出てきた。基本的にボクは演歌は嫌いである。でも、ひと声歌いだしたところで、その歌声にもっていかれた! そう、ボク自身の少年時代に!
懐かしい唱法、のびやかな高音――誰だろう。この声は、とてつもない懐かしい感情に包まれて、ボクは思わず泣いてしまった。
まだ、テレビもインターネットもなかった時代、音質の悪いラジオから流れてきたのびやかな声。好きとか嫌いとか、ジャンルとかそんな知識も何もない頃に、聞くともなく聞いて「時代」を刻印するような音楽。「時代」に刻み付けられた「うた」そのもの。
しかし、その盲目の歌手はまだ十代らしいのだ。学生服を着て舞台に登場した。
うん、待てよ。ガクランを着た歌手と言う存在も、まるで昭和40年代だが(たとえば、舟木一夫、三田明か?)、その声はもっと懐かしいのだ。
その頃、ボクはどこにいたのだろう? どうやら、あとから聞いた話を総合すると、その場所は熊本県宇土半島三角だったようだ。まるで、対岸にあった銭湯絵の「松島」のような小島の連なる風景は、天草の島々だったようだ。山が迫って猫の額ほどの狭い土地に、へばりついて生活していた人間たちは湾内のナマコや、沖合いの魚を捕って生活するものが多かった。それは、不知火海の豊かな海に生かされてきた水俣の漁民たちと、おそらく変わりがなかったろう。
そういえば、そこに住んでいた記憶の中で、天候が悪かったことはあるが、海が荒れたと言う記憶は全くない。凪いだ平穏な海――荒々しい玄海灘から、幾重にも島や入り江に囲まれ、不知火海は九州の子宮の形をしている!
そして、その頃、ボクが母と住んでいた小屋は、湾の海に突き出たいわば漁師小屋だった。トイレは直接、湾の中に落とされ魚たちのエサに供されていた。ボクらの家族は、対面の豪勢な旧家に住む親戚を頼ってその小屋に住むことがかろうじて出来たのだ。
その頃、凪いだ湾の向こう側からスピーカーを通して「うた」が聞こえてきた。音はワンワンと割れている、それでも構わずに大音響で当時の「歌謡曲」が流されていた。漁師小屋のどうにか住むことができるようになったウチにラジオもあるはずがない。その、あとで分かったが漁協のスピーカーを通して流れる「うた」は、貧しい生活の娯楽のひとつとなった。どういう経緯か覚えていないが、ボクは都会(ボクは長崎で生まれた)から来た坊ちゃんで(その割には漁師小屋に好意で住まわしてもらって)漁師のひとたちに可愛がられて、小舟の櫓を漕いだり、ポンポン船に乗らせてもらって沖合いに出たりして遊んでいたのだが、それでもこの「うた」は、当時の貧しい少年のボクを慰めてくれた。
奇妙なことに、のちにガンジス河の岸辺にいてボクは、ワンワンと割れたスピーカーから流れるヒンドゥポップスに、デジャヴィ(既視感)を感じたことがあるのだが、それはこの少年時の体験だったのだろう。
その頃、孤独な少年だったボクの無聊を慰めた「うた」は、後に知ったが、島倉千代子であり、三橋美智也だった。
そう、その盲目の演歌歌手はボクを一気にその記憶の中へ連れ去った。あの、漁師小屋で聞いた風で運ばれて来た対岸の歪んだ「うた」!
そこが、九州も子宮にあたるような地形の近くにあったせいか、子宮もないのにボクが孕んでしまった「うた」を思い出させてくれたのだ。
懐かしいうたごえ、大地の子宮がかなでるあの「うた」を!
清水博正クンという最近CDデビューをしたという盲学校に通うこのウタシャー(歌手)を、ボクは演歌が嫌いなのに応援したくなってしまったのである。

0