現在の京都、四条河原町の橋のたもとにある南座には阿国の像がたち、歌舞伎発祥の地という碑がたっている。最近発見された『洛中洛外図屏風絵』(現在4点ある)には、その第3扇に四条河原町の粗末な小屋掛けの舞台で女歌舞伎を興行しているさまが描かれている。竹で組んだ柱に筵で葺いた屋根といった粗末なものだが、それでもそのような常打ち小屋を洛中にかかげただけでもたいしたものである。
そして、このような自立する女性の職能は、風俗撹乱の疑いで時の支配者に禁止されてしまう。異(性)装で「傾く(かぶく)」アンドロギュヌスの姿は、為政者に相当な衝撃を与えたに違いない。
応仁の乱の不穏な空気が流れる中、大平天国を謳歌するかのような今日で言えば「宝塚」のようなスタイルのミュージカルが中世の京都の町中に登場したのだ。その驚きといったら、いかほどのものだったろうか?
鬼や天狗が、暗い闇の中で跳躍跋扈していた世の中でのできごとである。異星人でも見るような驚きだったと思われる。ただ、この頃は儒教的な考え方も、ジェンダーへの押しつけ(「らしさ」という教育も価値観)もなく、男女はその意味では野生動物のように、野良犬のように自由だったとも言えそうだ。
そんな世の中での倒錯の芸能は(娘が若者を、男を演じ遊女を買いにゆくといった)風俗びん乱し男女の違いを超えるためか、町衆だけでなく遊女そのものに受け、追従者を輩出した。つまり、その阿国のスタイルは中世の都たる京都の洛中に、職能集団として自立した女性たちの集団と、既に経済的には自立に近かったが、管理売春にしかすぎなかった遊女たちに、いわば自立的な表現を与えた。もしかしたら、このようなインパクトがなかったならば、「京舞」のような独自な舞踊は生まれなかったかも知れない。おそらく、遊女と芸能が結びついて「妓女」という舞妓の原型のようなスタイルはこうして生まれたのであろうから……。
先に触れた『洛中洛外図屏風絵』には、貴族の暮らしぶりだけでなく、名もない民衆の職能や運送業などが同時に記録されているが、注目すべきは遊興や娯楽として「女歌舞伎」以外にも、狂言、大道芸、軽業、相撲、神事としての競馬、ありとあらゆるところで繰り広げられている念仏踊りがある。念仏踊りは時宗の踊り念仏が、大衆化したものだが、何の救いもない民衆にこの頃、大ブームとなって迎えられる。
それはあたかもペストが欧州を席巻した中世に、全ヨーロッパ中の民衆にブームとして迎えられた「死の舞踏」に似ているかも知れない。ただ、メメント・モリ(死を想え!)を心底叩き込み、死神の圧倒的な勝利、死の前では国王も乞食も平等である絶対的な価値観に基づいた「死の舞踏」に比べ、大衆化された「念仏踊り」は、鉦や太鼓を打ちならし娯楽的な色彩をもった舞踊である。
「念仏踊り」は、盂蘭盆会と結びつき今日の「盆踊り」として、各地に残るが死者を迎え、死者と共に踊っているのだなどとは誰れも考えもしない。
ある意味、今日まで残る風習や、踊り、芸能は戦乱がおさまりつつあった中世のこの頃(慶長年間。西暦1600年初め頃)に形作られたとは言えるかも知れない。応仁の乱で途絶えていた祇園祭もこの頃、復活し『洛中洛外図屏風絵』には、あでやかなその祇園祭の様子が艶やかに描かれている。
(了)
(写真)白拍子の衣裳。烏帽子に水干、太刀を帯びた白拍子の姿は、男の姿であり、異性装である。

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