東日本の最大の寄せ場である山谷へ行った。行かねばならない事情があったから……。だから、これはルポではないし、まして山谷を語るものではない。越冬中の山谷のひと夜を報告する表層の一文である。
いわゆるヤマと呼ばれる「山谷」という地名は地図の上にはない。だが、その日雇い労働者の街、東日本最大の寄せ場「山谷」は、アークヒルズとともに厳然としてこの国の首都東京の中に存在している。一方はIT長者の住む幻影としてのアークヒルズと、その正反対のひと夜のドヤ(宿)もない底辺労働者たちがアオカン(野外宿泊)する街として……。
そこは首都東京の鬼門、丑寅の方向に見合ったためかふたつの悪場所にはさまれ、さらに隅田川という江戸時代から庶民に親しまれた川のエッジのような場所にある。悪場所とは、ひとつは吉原、そして川向こうの玉ノ井の郭街である。
ボクが少年の頃にはこの「川向こう」という言い方にもどこか差別意識を含んだ言い回しで多くのひと(江戸っ子?)は使っていたように思う。
第一、この日光街道もしくは常磐線を敷衍した先には小菅刑務所がある。この風水的な方位の一致はなんなんだろうと考え込んでしまう。
さて、山谷の街は、そのどこか置き忘れられたような時間の止まった佇まいの街並みとともに淋しく、底冷えがした。実際、かなり寒い日だったのだが、最底辺に生きる人々は身を寄せるようにして商店街の路上に布団を敷いて寝ているのである。その中には行倒れとも泥酔して昏睡しているとも区別がつかない状態で正体なく服のまま横たわっているいるひともいる。そのまま、眠り込んだら凍死の危険もある真冬にである。
だが、どちらかというと労働者の数は全体に少ないのではないかと思われた。それはアブレが少なくなったと考えるべきなのか、かっての街にあふれるような労働者の数が少なくなったのは経済の冷え込みとともに街の活況がなくなったせいなのか、それともボクが行った時間のせいなのか?
寄せ場を支援する団体が運営する「遊戯場」なるところも覗いてきた。地下ホールのようなそこには暖を求めて身の回りの荷物だけをもった数十人の男たちが、一斉に同じ方向を見たまま押し黙っている。その視線の先には大型のTVがあった。まるで、ひと昔前の街頭TVが再現されたみたいだった。
簡単な調理用具と炊事場があったが、時間が遅かったためか使用しているひとはいなかった。
キリスト教関係の伝道所があった。「神の愛」を宣べ伝えるために炊き出しや、生活支援をやっている活動のセンター的役割を果たしているのだろう。そして、その建物がどこか崩れていくような昭和初期のキャバレーか、ミルクホールの佇まいを外観に残しているのが不思議だった。
そして、この寒々しさと非現実感はなんなんだろうと考えながら山谷の街を彷徨していると、それは正体のつかめない、もしくはいづこともしれない名付けようもない「夢の中の街」に似ているのかもと思い至った。
だが、実はこの街は繁栄する日本の常に陰画、ネガでありつづけた街なのであった。高度成長期しかり、バブル期しかり……。ゼネコンからみの大規模施設や、高層建築そして公共事業が盛んに事業計画・建設されていた時代に、それを肉体労働、日雇い労働として支え続けた底辺労働者が住んだ街なのだ。
つまり、「夢の中の街」の「夢」とは、この国がGNP成長の過程で見た砂上の楼閣のことで、ひとときの甘い夢を共有できたかもしれない寄せ場の住人の夢をも内包して、その街の凍えるような寒さと暗さは崩壊した夢の陰画を現わしているかのようだったのだ。
ボクは影のような暗い街を影のようにうろつき回ったのだった。
(写真1)「寄せ場」山谷。暗く底冷えのする街だった。
(写真_2)一泊2,500円の個室3畳間。大阪釜ケ崎のドヤと酷似した部屋だった。しかし、ここはマシな方できれいだった。
(写真3)キリスト教系の「伝道センター」の建物は、まるで昭和初期のキャバレーか、ミルクホール跡のような佇まいをしていた。

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